20241105-01 連休明けのうつろな日の昼休みにバカボンのパパを思う
AIの進化のニュースが頻繁に入って来る。
ついていくのがやっとだけど、どんなにAIが進化しても文章だけは自分で書きたいと思う。なぜならば、書き始めた自分が、どんな思いに出会えるのかは自分で書かない限りわからないし、書き終わったあとに自分はこんなことを思っていたのかと気づく幸せを放棄することにつながるからね。そんな幸せを自分から手放すなんてMOTTAINAIと思う。
いやね、お世話になっている音声認識アプリのことなんだ。こちらも認識率が格段に高まってありがたいのなんのって。もっと若いころにこんなのが欲しかった・・・と思う。
だけど、昔からこんな私に寄り添ってくれて筆談をしてくれたり、会社でも当時なりの最先端の音声認識システムを導入してくれたり。もちろん、善意でパソコン通訳を担ってくれたり。
そんな人のありがたみを知ることができた経験は何にもかえがたい貴重なもので、「それでいいのだ」とバカボンのパパに言われた気がする。
昔からといったけど、訂正する。勇気を出して「聞こえないので書いてください」と言えるようになったのは大人になってから。社会人になってからだ。もっといえば研修後に配属になった先で恩人ともいえる人に出会ってから。それまでは、ずっと言えずに隠して逃げてきた。聞こえたフリをしながらね。だから今、堂々と自分のハンディキャップを語る若い人を素直に尊敬する。
私が生きてきたのはこんなことを言われていた時代。
集中力がないから聞こえないのだ
人に助けてもらうのはよくないことだ
努力して聞こえるようになりなさい
障害の社会モデルも合理的配慮という言葉も、そんな考え方の萌芽さえなかった時代。差別用語だって元気だった。「つ●ぼ」とか言われたもの。そんな悪口だけはちゃんと聞き取れるのも悔しさに拍車をかける。
時代は変わった。今は技術だけでなく、こんな本だって寄り添ってくれる。この本はあくまでも例示だ。他にも寄り添ってくれる本はたくさんある。だから苦しんでいる人は、自分を救ってくれる本や言葉に出会って救われてほしいと切に願う。私自身が救われてきたからこんなことを書いている。
先人の努力だけでなく今を生きる仲間の努力で時代は確かに変わってきた。もちろん良い方向にね。ただ、それにフリーライドするのではなく、自分なりの役割を果たしたいとも思う。こうしたMITTOMONAI自分の経験の開示もそんな思いから。
いつだったか、筆談でコミュニケーションをしてくれる後輩が私を評して言ってくれた言葉。こんな言葉に励まされて生きてきた。それでいいのだと思う。
※見出し写真はnoteの「みんなのフォトギャラリー」から©NaraTabiさんのものを使わせていただきました。ありがとうございます。