田舎暮らしあれやこれや② 移住を決める

そもそも何故そんな辺鄙な田舎で暮らすことになったのか。
大きなきっかけは2011年の東日本大震災。

当時私たちは関東に住んでいてあの地震を経験する。余震は毎日のようにあるし放射能の報道も絶えず流れてくる。様々な情報が錯綜していて日々混乱の中にいた。しかも私たちが住む場所に放射能雲がやって来て雨を降らせてしまった。そのせいで周辺は放射能に汚染され水道水の放射能レベルが異常値だったと後になって市から発表された。毎日体内に取り入れていた水が安全ではなくなっていた。

近所にあった大学病院では独自に病院周辺の放射能レベルを測定し、異常値が続いているとHPに掲載し始めた。スーパーでは水の放射能を除去できる機械が取り入れられその水をもらおうと長蛇の列になった。水も農作物も肉も魚も不安まみれの食材になってしまった。貸農園で作っていた私たちの野菜も汚染したのだろうか・・・もうどうすればいいのかわからなかった。

義母が放射能測定器「ガイガーカウンター」という物を購入し送ってくれた。毎日それを使って自宅のベランダや貸農園、通勤路、よく行くスーパーなどありとあらゆる場所を測定した。異常値を示すと警告音が鳴るのだけれども、屋外では終始ピーピー鳴っていた。外出は極力控え、貸農園も泣く泣く契約解除、自宅の窓は閉めきり換気もなるべくしないようにした。ここで暮らし続けていいのだろうかと不安は募るばかり。

放射能汚染された牛乳を他の牛乳と混ぜて汚染を薄めて売っているだとか、奇形の植物・昆虫が増えているだとか、汚染した川の魚が次々死んでいくとか、ネット上では本当にたくさんの情報がはびこっていた。うそかまことか、判断する術もない。

職場の仲間はみんな持ち家で賃貸は私だけ、よほどの事がないかぎり皆ここが終の棲家なのだ。最初の頃は放射能の話をよくしていたのだけれども、もうどうしようもないことを悟り次第に話題にしなくなった。放射能と共存する、だから考えても仕方のないこと、それについてはもう話さない、そういう雰囲気に変化していった。

この不安やこれからどうすればいいのかを誰かと共有したい、けれども関西の地元友人に話してもどこか他人事で真剣には取り合ってくれない。対岸の火事ってこういうことかと思い知った。きっと私も反対の立場ならそうなるだろう。

夫は環境保全のための仕事についていた。国の予算が環境から復興へ大幅に費やされることになり、人員もそちらに割かれ東北への出向もあり得る状況になった。

私たちには子供がおらず、かといって積極的に子供のことも考えてはいなかった。なるようになるか、という緩い考えであったはずなのに、放射能汚染を前に急に子供のことを考えるようになった。

妊婦が放射能に汚染したら・・・胎児への影響・・・汚染した母乳を飲んで・・・などネットにあふれる様々な負の情報に私たちの不安はより一層深まり、ここで子供ができたら取り返しがつかないかもしれない、ましてや東北に出向となればと思うようになった。この情報は嘘かもしれない、でも真実なら?

放射能にさらされた自分の卵子、まだ存在すらない自分の子供、汚染された食物でできた自分の体・・・頼りない不確かな思いが毎日毎日ぐるぐる巡り、不安は募り、そして考えることに疲れてしまった。放射能のことなんか考えなくてもいい場所に行きたい、ここを離れたい、そう思うようになった。そしてこの場所を離れる決断をした。

私たちはこの場所が好きだった。適度に都会で適度に田舎、地元の人と、地方の人がうまく混在していてとても住みやすかった。震災前には自宅を購入するべくモデルルームなんかもよく見に行っていた。ここで老後を過ごすのもいいかもしれないなと本気で考えていた。けれども私たちはこの場所から逃げたのだ。

職場や仲良くしていた人たちに引っ越すと伝えた時の後ろめたい、恥ずかしい気持ち。相手の「放射能だよね、仕方ないよね」という言葉の裏に「あなたは逃げる場所があっていいよね」と思われているであろう切なさ、心苦しさ。ここを脱出できるという喜びとは反対にやましい気持ちが大半を占めていた。

そのまま住んでいても何もなかったのかもしれない、ネットの情報もほとんどが嘘だったのかもしれない。でもあの時の私たちは逃げることが最善だと思ったのだ。
僻地生活が待ち受けているとも知らずに。


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