再発見される「型」①
字の上手い人と下手な人がいる。上手い人の字は美しく感じ、下手な人の字は見苦しく感じる。少なくとも私には。字は、そもそも記号なのだから意味がわかれば、判別できればその役割を果たしている。なのに優劣をつけてしまうのはなぜだろう。読みやすさというのは無論あるのだが、それだけではないように思う。
古くから伝わってきたものには、すべからく「型」がある。書道には書法があり、料理には調理法がありレシピがあり、茶道には所作があり、武道には攻撃や防御の形があり、音楽には楽譜があり演奏法がある。
それらを習うとき、まずはそれを真似ることから始める。それが「学ぶ」ことの第一歩であり、場合によっては全てであったりする。
「型」には、長年月をかけて培われ、洗練されてきた一種の合理性が高度に結実しているのは確かだろう。しかしその型が創出されたとき、ないし形成される過程においてどのような必然があったのかということまで現在に伝わっていることはまれだ。「型」は伝わっているが、それがなぜそうなのか今や判然としない物事も少なくないのだ。
しかしそれが何かのきっかけで再発見されることもある。
新海誠監督の「君の名は」に巫女の口喰み酒なるものが登場する。映画の中ではそうと解説されていないが、ご飯を口で噛んで唾液に含まれるジアスターゼで糖に分解し、口中を含め環境中に存在する乳酸菌や酵母により酒にする原始的な酒造法だ。これは古来男を知らない処女によってのみなされたという。その意味を考えたとき、単に象徴的な神事ではなく実用的な理由があったことが推察される。つまり異性との口づけの経験もない少女なら、酒づくりの障害になるような様々な雑菌を口中に宿していないと考えられるからだ。
似たような例だが、先般のコロナ騒動のときに思ったことがある。日本人は挨拶のとき、出会においても別離においても相手と体を接することがない(なかった)。一間の間を置いてお辞儀し、別れに際しても手を振る程度だ。諸外国では握手はもちろん、ハグやキスなどかなり濃厚な身体的接触があるのに、なぜ日本人だけ?と思っていた。しかしコロナ禍で「ソーシャルディスタンス」なるものが言われ始めて、はた!と納得するものがあった。
ユーラシア大陸とは海を隔てた地理にある日本では、過去大陸において流行し、とっくに皆が免疫を持っている感染症に対しても非常に脆弱だったのだ。記録に残るのは奈良時代からだが相当痛い目に遭っている。そのため遣唐使の時代など、外国の使節が到着した場合には港に月単位で留めて感染症のないことを確かめてから都へ上がらせるということをした。今でも、世界中で日本人だけがある種の伝染性プリオンに対して免疫がないと聞く。そのような日本において、身体を接触せずに挨拶をするという礼法を編み出したのは合理的なことだと思う。情緒的に物足りない部分は、微笑みでカバーしたということかもしれない。
ちなみに南北アメリカ大陸が「発見」された後の先住民の人口激減は征服者による虐殺だけでなくインフルエンザ、梅毒、天然痘などに免疫のない人々が簡単に死んでいったことによるのはよく知られたことだ。
尺八などにおける「型」の話をしようと思っていたのだが、思いのほか長くなってしまった。すでに夜も遅い。続きは次回書こうと思う。