「私らしく」あること、「私」であること
こんばんは。
以前、『人は自分自身で「自分が自分であること」を肯定できる』というnoteを書きました。
映画「福田村事件」を鑑賞後、昨年の9月末に書いたものです。
それから半年ほど経ち、今読み返してみると、自分で書いた記事に違和感を抱くようになりました。
今日はそのことについて書いてみたいと思います。
自己肯定感はどこで培われるもの?
違和感を抱くきっかけになった一つは、SPECTATOR Vol.51「自己啓発のひみつ」を読んだことです。
そうだな、と納得します。
自分が書いたnoteの本文に「自己肯定感」という言葉は登場しないです。
しかし、タイトルに『「自分が自分であること」を肯定できる』とあるので、そこから「自己肯定感」という言葉が連想されて、違和感に繋がっていたのかもしれません。
自己肯定感は、自分だけで育むのではなく「人間関係やコミュニティの中で」培われていくもの。
では、その「自己肯定感」とは何なのか。
SPECTATORには、
とありました。
自分で自分の存在を、好意的かつ肯定的に受け止められる能力。
この文章に「どんな場面で」という設定をつけるとしたら、何が浮かんでくるでしょうか?
僕は、2つ浮かびました。
一つは「自分の世界」、もう一つは「自分と他者の世界」です。
それぞれの場面において上記の文章を言い換えると、前者は「私」であること、後者は「私らしく」あること、となるのではないかと思います。
「私らしく」あるとは?
「あなたらしさ」「自分らしさ」
このような言葉が溢れていますね。
では、その「らしさ」とはどういうものなのでしょうか?
これに「私」という名詞に付けると、「私らしさ」になります。
「私にふさわしい様子をしていること」「私そのものであると判断される程度」。
ここから考えられるのは、「らしさ」には「判断する相手がいる」ということ。
また、「比較」を通して「らしさ」はあるのだとも言えます。
「私らしさ」とは、「比較する他者がいる」、そして「それを判断する他者がいる」場面においての言葉です。
なので、「(他者と異なる、または特化して見せる)私の本質はこうです」ということを「他者に対して」発する時の言葉が、「私らしさ」となるのではないでしょうか。
「私」であるとは?
では、「私」であるとはどういうことなのでしょう。
「私らしく」あることと比べてみます。
「私」であることは、「比較する他者」や「それを判断する他者」がいなくとも成立することだと思います。
ただ、シンプルに「私」であること、それ以上でも以下でもないです。
先に、
と書きました。
最初に引用したnoteのタイトルに戻りますが、『人は自分自身で「自分が自分であること」を肯定できる』、これは「自分の世界」においてそうであるのだと思います。
他の言い方をすれば、『人は自分だけで「自分が自分らしくあること」はできない』。
なぜなら、「自分らしさ」とは「自分と他者の世界」においての言葉だからです。
他者と比べられたり判断されたりしなくていい「私」であるって、いいなと思いましたか?
それとも、「自分の世界」でしかない「私」であるって、さみしいなと思いましたか?
「私らしく」あることと、「私」であることを持ち合わせていこう
ここまで書いたことを表にしてみるとこうなります。
ここで生まれる疑問。
「自分と他者の世界」において、「私」であることはできないのか?
できるとは思います。
ただ、それは他者を無視することであって、鏡のように反射して返ってくるのではないかな、とも思います。
「私らしく」あることと、「私」であることの違いについて考えてきましたが、もちろんこれらは繋がっているものでもあります。
どちらである方が良いということはなく、場面によって「表現の仕方」や「そうある意味」が変わるということだと思います。
他者と共に生きていくために、「私らしく」ある時があっていい。
自分を肯定するために、「私」である時があっていい。
「私らしく」あることも、「私」であることも持ち合わせていけたらいいな、と思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
皆さんにとって、「私らしく」あること、「私」であることはどんなことでしょうか?