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「他者に許されてきた自分」に気づく

今日から2月ですね。
2025年も1ヶ月が経ちました。

ふと、自分の過去のnoteを見返していました。
すると、昨年の今頃は、毎日更新をしていたのですね。
2024年は、9月までは毎月、月の日数以上の記事がありました。
すごいことをしていたな、と思います。

4月からは、「日々のデッサン」というかたちでの記事も書いてきました。
これは、「自分の日常を見つめる練習」のようなもので、今も続けていま
す。
そんな「日々のデッサン」を10ヶ月間続けてきた今、また違うかたちでの発信がしたいな、という気持ちが湧いてきました。
どんなかたち、どんなペースになるかはわかりませんが、よかったらまた覗いてくださいね。
「日々のデッサン」は続けますので、そちらもよかったら。

*

自分の過去のnoteを見返している中で、こんな記事を見つけました。

2年以上前のものですが、今の自分が読むと、また新しい発見があって面白いです。
記事の中で、歌手のYUKIの言葉を引用しています。
その中に、

他者にも許されてきた自分がいることに気付く

という言葉がありました。
他者に許されてきた自分
「そんな自分は、これまでたくさんいたのだな」「許されてきたからこそ、今ここの自分がいるんだな」ということを思います。

最近、自分の言葉で他者を傷つけてしったことがありました。
申し訳なさ、相手の背景を汲み取れなかった至らなさ、言葉が好きなのにその「言葉」で傷つけてしまった残念さ。
いろんな気持ちが湧いてきました。
謝罪をし、相手の方と向かい合い、自分とも向かい合いました。
許されたのかはわかりません。

「許す」「許される」って、どんなことでしょう。

言葉で「許しました」伝えること。
握手をすること。
他にも色々な「許す」「許される」が表現されているはずです。
僕は、その一つに「一緒にいること」があるように思います。

「許さない」「許されない」について考えてみると、もう一緒にはいられない感じがします。
僕もこれまで、「許さない」と思ってその場を離れてしまったことがありました。

言葉を交わすわけでもなく、何かをするわけでもないけれど、一緒にいること。
その時間に宿るエネルギーは確かにあると思います。

僕が言葉で傷つけてしまった方とは、まだ一緒にいることができています。

他者に許されてきた自分がいること。
そのことに気づきながら生きていきたいです。

*

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岩堀暉久
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