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哲学とは「思考法」のことではないか

私も若い頃、哲学の本を結構多く読んだ覚えがある。けれどある日を境に特別な理由でもない限り読むことはしなくなった。理由はいくつかある。

一つ目、シェークスピアの「ハムレット」で「天と地の間にはお前の哲学などには思いもよらぬ出来事があるのだ」というセリフがあるが、自らの思考には限界があるという思いを20代の後半に思い至ったこと。

二つ目、シオランの影響である。「生の秘密の一切は、次の点に帰着する。すなわち、生には何の意味もないが、にもかかわらず私たちはそれぞれ生に意味を見出しているのである。」(シオラン「思想の黄昏」)このことは、V・E・フランクルも繰り返し述べているが、「人生からの問いに応えるべき存在」であるという思想的転回に繋がるが、哲学が固有性であって何が悪いのか、万人に通じる形而上学を求めるこそ欺瞞ではないか?と考えるに至ったからである。

三つ目、微生物学の影響である。その時の気分など「腹具合」ひとつでどうにでも変わってしまうという、実に衝撃的な事実が分かってしまったからだ。この辺は説明が必要かと思う。アランナ・コリン「あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめた」を読むと腸内細菌叢によって人間の気分や身体事情が、人間の意識とは関係なしに簡単に変わってしまうのだ。先進諸国で昨今、鬱病や統合失調、自閉症スペクトラム障害の増加が増えているのは腸内細菌叢(腸内フローラ)の悪化によるものと述べている。ということは冷静な思考をすることも本当に「正しい」ものなのかを疑うべきではないかと思えてくる。

あと、フランク・ライアン「破壊する創造者――ウイルスがヒトを進化させた」で人類が勝手に生み出した「神」というものに対する疑い、そして人類の「無知」を知るに至った。多くの人々はウイルスが生物の進化に関与して、さらに共生しているという話を納得できるだろうか?特に昨今のコロナ禍では考えたくない人も多かろう。けれどこれは紛れもない真実であって、過去の形而上学がそんなことを知り得ようはずもなく、科学の発展故に判明したことであるので、人間の思考は「目に見える」もの、「理解の及ぶもの」の範疇のみ有効かと考えてもいい様に思える。ところが話はここで終わらない。


四つ目、人間の思考には「バイアス」があるということだ。このことに最も早く気づいたのは、フロイトやユングとかではない。私が知る限りでは、哲学者に転向する前の心理学者だったウィリアム・ジェームスではないかと思われる(もしかしたらさらなる先駆者がいたら教えて欲しい)。大著「心理学原理」は未だに日本語訳が無いが、岩波文庫に「心理学〈上〉」、「心理学〈下〉」には「習慣こそが人間の意識を決定しえる」こととか、「われわれは泣くから悲しい。殴るから怒る。震えるから恐ろしい、ということであって、悲しいから泣き、怒るから殴り、恐ろしいから震えるのではないというのである」と述べている。これは、昨今のユダヤ系の行動心理学者が偉そうに述べる「バイアス」よりも、150年も前にすでに述べていることから、まるで調べもせずに「見つけた」とか自慢するかの様に述べることが如何に虚しいことかが分かろうというものだ。

五つ目、哲学をしている人間でも、置かれた環境を無意識に優先的に重要視してしまうことだ。何もこのことが悪いと言っているのではない。けれど私でも当事者意識の無いところへの発言は極力控えている。例えば東日本大震災の「当事者」には永遠になり得ないからこそ、滅多なことを口にする気は今後もないし、政治的発言をしたりすることも控えている。とにかく多くの人は「対岸の火事」を眺めるのが昔から好きであり、自ら降りかかった「不幸」には居ても立ってもいられない癖に、テレビやネットでのニュースにはこれ見よがしに「匿名」性をいいことにろくでもない無責任な発言をする人の多いことからもわかる。特に私はこのことが嫌いである。哲学者とて自らの置かれた環境を前提に発言してしまったケースが結構ある。

例えば哲学者のショーペンハウアーの女性嫌いとかは、放蕩な母親の影響を考えずには考えにくい。確かに19世紀当時、新興資本家達が、古来の貴族趣味を模倣し始めた時の嫌悪感を当時の詩人や作家達の多く持っていて、事あるごとに批判している。けれどショーペンハウアーの女性嫌いは厳格な父が亡くなったこと(自殺という説もある)でそのくびきから解き放たれた母親の放漫な社交界交流(作家活動もしはじめた)によって破綻しはじめ、陰鬱な若きショーペンハウアーをあからさまに毛嫌いしだす。ショーペンハウアーの立場からすれば愛情を注がれない母を女性の鏡として偏見を抱いてしまうことを、当時の社交界の多くの女性がそうしていただけに一層拍車がかかったと思われる。ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」というフェミニズム思想には評判がよくないが、「美」とか「感性」とか「欲望」とかの「仕組み」や構造を経済学に含めた興味深い本がある。「奢侈」が貴族階級から資本家階級に即物化していった経緯を述べたものだ。私が思うに日本では80年代のバブル経済の頃を思い起こすだけで十分だろう。

少々脱線してしまったが、あと沖仲仕の哲学者と呼ばれたエリック・ホッファーのことを述べたい。確かにエリック・ホッファーの倫理観は一流である。「魂の錬金術―エリック・ホッファー全アフォリズム集」や「波止場日記――労働と思索」はぜひ一読されたい。ところがその「日記」に書かれている自然の厳しさに対する内容は私には疑問に感じた。なぜなら、
デイビッド・モントゴメリー「土の文明史」を読めば分かるがアメリカ大陸のダウト・ボールの様に自然災害を生み出したのは他ならない人類であることがわかるからだ。また、マルク・レビンソン「コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった」でエリック・ホッファーの発言には違和感があった。かつては沖仲仕達が肉体労働でもって荷物を船から港に運び入れていたが、それは中には荷物そのものの盗難、行方不明になったり、破損、労働者の死傷者が出たりと危険な仕事であった。また肉体労働者なだけに当時労働組合の力が大変強く、暴力沙汰やストライキも後を絶たなかった。


そこで、運搬の安全なコンテナの導入する動きに対して、「われわれの世代はいかなる権利も手放してはならないし、カネで売ってもならない。われわれの労働は、前の世代から譲り受けたものだ」とエリック・ホッファーは発言したのだ。これは自らのコミュニティにおける連帯性(仲間意識)の破綻を促すものと捉えた為の発言である。エリック・ホッファーは沖仲仕の前は工場労働者の経験もあるが、コンテナを導入されれば「港湾の仕事が工場での仕事になる」ことを思ってのことだろうが、現代からすると「時代錯誤」とも受け止められかねないが、最終的にこの動きを食い止めることは出来なかった。哲学者といえども他者の立場からの考えを視野に入れられなかった、いや哲学をすることの弊害も「ここ」にあるのではないかと思うに至ったからだ。

以上、長々と述べた。私は哲学することを悪いと言っているわけではない。じっくりと頭で熟考することも必要ではある。それでも個人的な考え、そして哲学することを「絶対」視することは止めた方がよいと思う。検証という遡上にのせて練磨することが必要だ。

私は哲学をある人の「方法論」であり、「思考法」の一つとして歓迎すればどうかと思うのだ。大学時代に現代思想や哲学の本を読み漁った、山口周氏がそういう本を色々と書いている(それでも彼自身、科学や生物学の分野に造詣が深いという感じでない気もする)。一時期スラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの思想を利用して「思想」を方法に置き換えて述べるやり口がある。私も基本嫌いではないが、「笑い」や「ギャグ」と受け止められなければあまり効用は無い。笑いを取るなら、いしいひさいち「現代思想の遭難者たち 増補版」くらいに徹底しないとダメだ。その為にはその思想の欠点とかアキレス腱を熟知しなくてはいけない。それに最も過去の哲学者の多くは、社会不適合者(ミスフィット)の素質を持つ者が多い。いまや哲学にかぶれるとかファッションの様に持てはやされた時期でもない。わざわざ難儀な分野に突入する必要もない。けれど自らの頭で考えることも必要ではある。一方で独創性を打ち出すなどという馬鹿なことも止めた方がいいとも思う。

特に西洋哲学には、それがいえる。ホワイトヘッドの「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」という名言があり、過去同じ様に考えた人がいたということであって、私はオリジナリティな思考法も怪しいものだと達観している。

ある予感はあったら、それがどういう経緯で生まれたかを大事にすることの方が大事ではないかという気もする。多くの哲学的思考法では偶有性に対処しづらいのだ。論理的、合理的思考法でなく「方法としての哲学思考」と逆転させてはどうか?と私は思う。

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