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価値あるものに命の時間を使いたい
明日死ぬとしたら、残された24時間の命を何に使いたいか。イエス・キリストの十字架と復活を通して救われるという福音を一人でも多くの人に伝えたい。自分の置かれた状況と自分の与えれた能力を、最も効率よく活かして伝えたい。それをいつも思い出しながら、日々やる仕事の優先順位を決めていきたい。
福音を伝えるというのは、直接伝えることももちろん、そういう機会があれば良いのですが、間接的に伝えたり、そういうコンテンツを公開したり、伝えてる人を励ましたり、伝えてる人が助かるような役立つ道具となるソフトウェアを開発することも含めて考えてます。伝える手助けをするのも伝えるのうち。
もちろん、明日死ぬわけじゃないとは思いますが、いつかは死ぬわけです。人生は、残された時間は、命は有限です。夏が80回来たらだいたいの人は死ぬか、働けなくなるわけです。僕も39歳だし体力も衰えるでしょう。そう考えたら残った知力体力と活動可能時間はとても貴重で最も価値ある伝道に使いたい。
伝道のために自分の時間知力体力をどう使うか、それは神様が備えてくださった自分の環境や能力を活かす使い方が最も良いと思うんです。神様は福音を伝えるために特定の環境も能力も与えられたと信じます。だからせっかく授かったものを無駄にする方法は避けるのがタラントを預かった責任だと思います。
昔はタラントの例えが嫌いでした。欲しいと思ったわけでもないのに与えられてそれで神様に成果を持ってかないと低評価されるみたいな誤解をしてました。完全に間違ってました。今はタラントは偉ぶるでもなく卑下するものでもなく神様との愛の共同作業のためにレンタルしてくださった道具だと思います。
大学に入るまでは世間や世の中のことが全然見えてなくて、自分が恵まれていることに気づいてませんでした。特に一生懸命学ぼうとしなくても聞いてただけで韓国語ができるようになったけど他の聞いてた人はそうじゃないのに気づいた時、ああ自分は普通じゃないと気づきました。それが重荷になりました。
世間を学ぶために日雇いの派遣に登録した時、自分以外全員タバコを吸っている現場や港湾労働者の人達と接して自分がどれくらい恵まれてるか分かりました。おぼっちゃんだなと。引け目を感じました。でも自分で選んわだけじゃない。どうしようもありません。自分のために使うか世のため人のため使うか。
自分の環境や能力は自分ひとりで消費するために神が自分に与えたのではなく、神と人を愛するための道具として、神が自分に与えたのだ。そう信じて生きるようになって、引け目や申し訳無さから開放されました。神様が一部の人に多く与えるように見えるのは、少ない人が満ち足りるためだと今は信じます。
無理に自分を犠牲にして燃え尽きるでもなく、自分の能力や時間を出し惜しみして無駄にするでもなく、自分の能力や環境に見合った無理や無駄のない最適な貢献の形を探し、神様に祈り求め、日々の優先順位の判断に活かせていければ幸いだと思います。それで神様と周囲の人が喜ぶならすばらしい限りです。