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建前の壁を崩して作り直す信頼関係

キリスト教なのに本音言えないのはきつい。なんでキリスト教なのに建前ばっかり繕わないといけないのか。イエス様は建前ばっかりの生き方で模範を示したのか。イエス様は毎秒全部本音、直球で生きた。実名で建前ばかり述べるより、匿名ででも本音出せるなら、匿名でツイッターするほうがいい。

イエス・キリストが取り壊そうとしたのが本音を言えない人と人を隔てる距離感・不信頼の壁なんじゃないか。イエスの弟子として生きる人なら、神の家族だと言うなら、本音で語り合える関係を築けているはずじゃないのか。SNSで匿名でしか本音が言えないなら本当に愛し合ってると言えるのか。

「キリスト教なら空気を恐れないで本音言え。本当に神を信じて神を最も恐れるなら、空気じゃなくて神を恐れるなら、自分の信念に忠実に本音を言え。空気壊せ。空気にびびってんじゃないよ。」と自分に発破をかける。カッコつけなくていいよ。かっこ悪くていいよ。それでも本音ダダ漏れで生きたいよ。

僕は僕なりのある意味特殊な立場で、教会でも、キリスト教界でも、特に失うもののない人なので、ある意味で開き直ってるし、実名で本音言おうとしてますけど。他の人達はそうもいかないのは理解できる。ただ見ててきつい。クリスチャン皆が教会で本音の言えない不自由さから開放される日を夢見てる。

本音をぶつけ合っても互いに人格否定だと解釈しないような人間関係が愛の関係じゃないのか。意見が異なっても互いの人格を尊重した上で不同意であることに同意できるのが成熟した愛じゃないのか。取税人と熱心党員が共に神の子の弟子として共に生きるのがイエスが願った道ではないのか。

もちろん、理想はありますよ。イエス様が生きたように完璧に生きたい理想が。ただそれに追いついてない現実もあるわけですよ。みんなどっか足りない面があるでしょう。それを泥臭く互いに悔い改めて、互いに赦して生きるしかないわけでしょう。建前でそれができるかというと、できないわけです。

悔い改めたら見下されるかもしれないとか、赦したらつけ込んで食い物にされるとか、そういう人間関係が前提なら建前で生きるしかない。それが嫌なら、本音で生きたいなら、めんどくさくてもまず信頼関係を作るところからはじめないと。それには同じように救われたことを信じ告白し喜ぶのが前提になる。

思想や性別や民族や文化や世代が違っても、同じようにイエス・キリストの十字架によって救われた、その復活を信じて自分も死んだような人生から生まれ変わって復活して生きている。その喜びが空気を壊す恐れから人を自由にするんじゃないだろうか。互いに本音を言える安心感を人に与えるんじゃないか。

イエス様は我々に互いに愛し合って生きなさいと言われたわけですが、その生き方というのは小綺麗な建前の壁の中に引きこもっていては実現できないものです。泥臭くても本音をぶつけ合える壁のない信頼関係からしか、本当の愛の関係は作れないと僕は信じます。建前は捨てて互いに愛し合いましょう。

画像:Bing Image Creator powered by DALL-E 3 で生成したものを編集


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