『響け!ユーフォニアム』が貫いた「原作改変」の美学

(ネタバレあり)

メディアミックス作品で「原作改変」をすることは、特に『セクシー田中さん』の痛ましい事件の後、極めてセンシティブな問題になっている。私はあの事件において実際に何があったのかを知りうる立場ではないが、テレビ局側がコミュニケーションの不足により作者を追い詰めたのは確かであり、責任は免れられないだろう。

一方で、「原作に忠実」であることはそんなに偉いのか、とはずっと考えている。特にアニメでは、過去作品のリメイク物を中心に、原作漫画の台詞の一字一句を変えずに映像化する作品が増えているが、それなら漫画読めばいいじゃんと思ってしまう。原作を別のメディアで新たに作品化することは、そういうことではないでしょうと。

韓国の映画監督パク・チャヌクは、原作改変の名手だと思っている。『オールド・ボーイ』は原作漫画の設定以外はほぼ全てが改変され、オチまで原作と異なっているが、何も知らされないまま試写を見た原作者はその出来にガッツポーズしたという。また、ヴィクトリア朝のイギリスが舞台の原作小説を下敷きにした『お嬢さん』は、舞台を日帝支配下の朝鮮に変更してしまい、あまりの違いにシナリオを読んだ原作者は「原作ではなく原案にしてくれ」と要求したが、出来上がったものをみたら「やっぱり原作者にしてくれ」と掌を返したという。

原作と違うじゃないかという戸惑いが、圧倒的な作品の力によって黙らせられる。これこそメディアミックス作品を鑑賞するときの醍醐味ではないか。もちろん個人的な価値観でしかないが、そう考えている。

今年の春に放送された『響け!ユーフォニアム』は、大胆な原作改変を行ったため、ファンに衝撃を与えた。かくいう私も揺さぶられたその一人である。原作を一通り読んだ人間にとってはつらすぎる展開なのだが、確かにここまでのアニメ展開から導かれた結論としては正解としか呼べない。このモヤモヤをどこかに落ち着けるためにできることは、作品を称賛することぐらいしかない。従って、せめてこの作品の「原作改変」がなぜ正しいのかを解説してみたい。

衝撃的な原作改変を行った『響け!ユーフォニアム』

『響け!ユーフォニアム』は、京都府にある北宇治高校という架空の吹奏楽部無名校が3年をかけて全国大会金賞を獲得するまでの過程を描いている。主人公の黄前久美子はユーフォニアム奏者で、トランペット奏者の高坂麗奈はかけがえなのないパートナー。彼女には、部長として全国大会金賞を取るという目標があるが、もう一つ、課題曲のソリ(二人の奏者がメインとなるパート)を麗奈と吹くという目標があった。ところが3年に入って、黒江真由という彼女と拮抗するユーフォニアム奏者が転校してきてしまう。「上手いものが吹く」のが北宇治高校の鉄則。しかし麗奈と吹きたい気持ちとの葛藤で彼女は悩む。

原作では、最後の最後で久美子はオーディションに勝ち、麗奈とのソリを獲得する。しかしアニメでは、最終オーディションで真由が勝利してしまう。つまりクライマックスで主人公が敗北してしまうのである。

原作者の武田綾乃はSNSで、この展開はアニメスタッフと話し合ったうえで自分も納得し了承したものだということと、原作とアニメの違いを含め両方を楽しんでほしいという旨を投稿している。

原作ではなぜ久美子は勝利できたのか

この思い切った改変はなぜ起きたのか。原作の『響け!ユーフォニアム』は、主人公の久美子が様々な人々と関わり合いながら成長していく物語だ。特に熱意もなく吹奏楽部に入ってしまった久美子は、ストイックに音楽に取り組み、上手くなることと全国で金賞をとることをストイックに追い求める麗奈を最初は畏れと憧れの目で見ていたが、先輩や家族との関わりの中で次第に麗奈と同じ目線を獲得していき、最終的には親友を超えたかけがえのないパートナーとなる。

北宇治高校が強豪化する過程で、吹奏楽部では様々な人間関係の軋轢が生じる。それが小説の各巻のテーマとなるのだが、それぞれの特徴は、「問題は解決するが人と人との距離は残る」というものだ。人と人とは違いがあって当然であり、100%同じであることを武田綾乃は求めていない。原作者はキャラクターを造形するとき、必ず対になるペアを設定して考えると述べている。キャラクターの個性は、差異があるからこそ際立つ。
 
アニメ第3シーズンに相当する原作小説『決意の第三楽章』でも、麗奈とともに音楽の高みを目指す久美子と、ただ仲良く吹ければいい真由の違いは最後まで際立っている。最後のオーディションで久美子が勝利した決め手は、久美子の「熱意」だったと真由の口から語られる。久美子の気持ちの成長が、真由の技術を上回ったことになる。
 
アニメ版『響け!ユーフォニアム』で表現される「音楽の高み」
 
一方、アニメ版『響け!ユーフォニアム』のテーマは原作とは若干異なっている。久美子と麗奈が音楽の高みを目指す過程で親密な関係になることには変わりはないのだが、その音楽の高みは、アニメ版においては、より崇高で美学的なものであり、そこに到達するためには何を犠牲にしてもかまわないという決意が二人の中にはある。絶対的な美なるものがこの世界には決然として存在し、その存在に気付いてしまった久美子と麗奈は、その秘密を共有する関係として、耽美の世界へと入り込んでいく。

この、音楽に絶対的な高みがあるという演出は、第3シーズンから始まったものではない。既に『響け!ユーフォニアム』はアニメ版『セッション』だと評価する人もいたように、美学的なものの優勢は、原作がまだ結末を迎えていない第1シーズンから存在していたものだ。

第1シーズンの終盤では、久美子が練習での小さな挫折を通して、麗奈が見ていた「音楽の高み」の片鱗に気づくというオリジナル・エピソードがある。原作にはないエピソードをここで敢えて入れたのは、今から考えれば、アニメ版はこの窮極の美を追求する路線で行くという決意表明だったといえる。、

そしてこの「音楽の高み」はやがて、主人公格の二人だけではなく、周囲のキャラクター全てを巻き込んでいくような絶対的な基準となる。物語のクライマックスで、久美子はある演説を行う。その内容は原作とアニメ版でほぼ同じものだ。しかし、その意味合いは、両者で異なるものとなっている。原作では、久美子の「熱意」の表れであり、その「熱意」が部員を巻き込んでいく。しかしアニメ版ではそれは、どんな犠牲を払ってでも「音楽の高み」を目指すという、ある意味では悲愴な決断となっている。あらゆる正義も人情も、美学的なものの前では沈黙せざるを得ないということだ。

アニメではなぜ真由が勝利したのか
 
この原作とアニメ版の、そもそもの違いを考えれば、なぜアニメが原作のストーリーを変えなければいけなかったのかが明らかになる。原作では「楽しく吹きたい」真由は久美子の「熱意」に敗れた。しかしアニメ版にはそうした人間界の対立からも超越した、絶対的な「音楽の高み」が存在している。その前では、原作では最後まで「仲間たちと楽しく吹く」という哲学を捨てなかった真由でさえ、本気を出さざるをえなくなるということだ。
 
さらにそこで、最終的にソリのパートナーを選択するのは麗奈だという演出がなされる。このとき、麗奈はかけがえのない存在である久美子ではなく真由を選択する。しかしそのことによって、二人は「上手い者が吹くべき」という信念を守り通したことになる。逆説的に、「音楽の高み」を目指した二人の3年間の営みはここで完成することになるのだ。
 
「原作改変」が成功する秘訣
 
このように、アニメ版『響け!ユーフォニアム』が描いてきた、原作とは異なる物語に一貫性を持たせるため、大きなストーリー変更を行ったのは優れた判断だったといえよう。「原作改変」がファンに嫌悪される状況下で、『響け!ユーフォニアム』が示したのは、お手本のような「原作改変」の在り方だった。
 
すなわち、真に原作者と原作にリスペクトを持ち、その基盤のもとで物語に新たな解釈を施し、その解釈と合致するストーリーを再構成するなら、たとえ大きな原作改変を行ったとしても、質の高い作品をつくることは可能だということなのだ。

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