True feeilng
HONNEというイギリス人のバンド(とウィキペディアには書かれているが正確には「エレクトロミュージックデュオ」らしい)を数年前に知ってから時々聴くのだがこの前観に行ったライブで初めて観たシンガーのかたの歌っていた曲が良いなと調べたらHONNEが作った曲だった。
それに伴ってどういう経緯で曲を提供することにしたのかという記事を検索してざっと読んだりした。
「本音」という日本独特のニュアンスの言葉を英語でざっと言い換えるなら
「True feeling」になるらしい。
でも日本語の「本音」にはもっと複雑な意味が込められている。
ぼんやりと曖昧な言葉が多いのが日本の言葉達だなと改めて感じるとともに、日本人特有の人間性が日本語に込められている。
この曖昧さに私や私以外の日本人は救われている所もあるのかもしれないと考えたりもした。
白でも黒でもなく、どちらも混ざり合っている、悪く言えば不明瞭で「はっきりしろよ」とも時には罵倒したくなるが、曖昧さには時には残酷なくらいの余白、そして時には優しい余白、そんなものがあるのかもしれない。
そんなどちらかにはっきりと感情を定めない曖昧さも人間には必要だろう、
だっていつでも明確にしなければいけなかったら逃げ場がなくなる人生になってしまう。
人間は人間をやっていくには弱すぎるのだ。シェルターみたいな所が勿論あってもよいのではという
最近はもうあとは死ぬだけみたいな人間みたいな感覚で息をしている。私は。
実際の私はもっと日々を楽しんでいるし
笑っている。
子供の頃は完璧なくらいの笑顔とポーズで写真を撮っていた。
何故か写真を撮られる時の自分だけ自信があったような気がした。
演じるのが染み付いていたし
演じるのが好きだった。
いつか演技をしたいと思っていた。
演技をすれば私ではない私になれるから。
この瞬間、最高の私を作り込んで写してもらい残す。
「完璧でしょう、写真の私は可愛く最高の笑顔の女の子よ」
という私でいたかったのかもしれなかった。
基本的に写真以外は表情を作らなかった気がする。
何故か気持ち悪いくらい写真でだけ完璧な笑顔で写っているのだ。
逆に今の私は撮られるとなるとどんな笑顔をしていいのか戸惑うのだ。
というか笑顔なんて作るもんじゃないんだよ
勝手に浮かび上がってくる感情の証なのならば
もうカメラには絶望している方の私をあえて残しておきたいのだろう。
何にも希望がない瞳
世界や人間を恨んでいる瞳
死を望む瞳
衰えていく肉体
全てを受け入れた瞳
私
カメラを早く買おうと思っている。
残酷なくらい時が流れるのが早い。
笑顔じゃなくてもいい。
本音を見せてほしい
私には見えるそしてあなたにも見える
きっと見える人にしか見えない本当の音だけを
聴いて見つめ合って
知りたい
本当に響いている音のほうを私に聴かせてほしい
私が聴きたいのはその音でしかない