「傲慢と善良」読後感

辻村深月 著「善良と傲慢」,朝日新聞出版

主人公:西澤 架(かける)が、突然、失踪した婚約者:坂庭真実を探しながら、それまでの自分と向き合う物語。
そして主人公:坂庭真実(まみ)が、失踪前、失踪後に過ごす毎日で、自分自身と西澤架に向き合う物語。

主軸は、婚活を通して気づく人間の「傲慢と善良」についてだと思う。
婚活という、活動を通すことで、自分が常識だと思っていた考え方も、他者の常識も、時によっては非常識だったり、傲慢な考え方であると気付く。
それは、善良と言われる性格に対しても同じ。

自分が相手に対して良かれと思う、「一言」「忠告」が、相手にとってはそうでないことがある。
それは場面であり、相手との関係性であり、ケースバイケース。
でも、時には誰しも「相手のため」という名分の下に「自分のため(自分が安心したい、自分の気持ちがすっきりしたい)」という無意識が働いていることがあるのではないか。つまり、相手に対しての、善良は善良でなく、傲慢さを伴う時がある。

そういった普段では気づきにくい無意識の傲慢さが婚活を通すことで、浮かび上がってしまう。善良、と言われている面も、人によってはそれが「甘え」であったり、「ずるさ」とうつる。

それはあたかも白だったものが黒だったり、その逆だったり、色んな側面で2面性があり、きっかけがあれば、逆転するということだ。

登場人物それぞれに、少しずつ自分が重なり、少しずつ違い、ずれる。
共感だったり、心苦しさが伴う。

しかし、中でも架の友人女性には、全然共感出来ない。
私は「お酒を飲んでいるから」を理由に、何でも言ったり、したりしていい訳じゃない、と思って生きているから。
架という魅力的な友人に対する独占欲のようなものを感じて、嫌な印象しか持てない。その上、友人としても根底で架を尊重していない気もする。
それ以外の場所で会い、知り合ったら、有能で楽しい人、として映るのかもしれないが。

そして、地方都市に特有の閉塞した人間関係。これは舞台の一つとなる前橋という市だけでなく、全国の同じような都市にありがちな、考え方だったり、人間関係だろう。広いようで狭いのだ。親世代の考え方も、親世代のものと捉えがちだが、若くても同じような考え方の人は沢山いる気がする。

すべてが心苦しく、拘りがいけないのか、拘りも必要なのか。色々思う。
架の鈍感さに傷つくことも、救われることもある。

自分の常識で相手を傷つけていないか。考えることが必要だと思う。
その上で、自分の意思を持つ、ということの難しさも感じる。
したいことや、夢なんて、日常に持ち続けるのが難しい人の方が多いのではないか。

真実の視点からの後半は、失踪してすべてをフラットな状態にして生きることで、決断出来ることもある、ということだろう。色んなものにとらわれ過ぎると本質が見えなくなる。考える時間も必要など。

最後の二人の決断には読む人の意見も分かれるのかもしれない。


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