長い長い余談ー傲岸不遜で、世の中で自分が一番好きな、怠惰な人間の「脳出血」の13年、そして再発
去年のこの時期、イベントに出るダンスの練習をしてた。ダンス。インクルーシブダンス。身体の半分、片手と片足が不自由なわたしは、普通では歩けなくて、歩けるようにするための装具(ギプスみたいなもの)を付けて、さらに杖をつく。でも、歩くのは普通よりかなり遅い。そんなんじゃダンスなんてできないし、音楽のスピードに合わせて踊ることは出来ない。だから、当然そういう時は車いす。車いすに乗る。
自分の車いすは足で漕ぐ車いすだ。COGYという。不自由でない方の足で漕げば不自由な反対の足もついてくる、自転車みたいなCOGYは、いつも自分を思いのままに動かしてくれる相棒。普段でも生活の中で普通に使うから、本当に頼りになるのだが、その時はイベントなのもあって、COGYではなく主催者側の電動車いすを使うことになっていた。
5年を一緒に過ごしているCOGYと違って、電動車いすとは急なペアだったから、すごく慣れなかった。使うのも練習の時しかなかったから、コツがわかりづらい。けど、踊るのが好きだった。好きだから一生懸命だった。息するときもただただ楽しくてただただ笑う。踊ってると無心になれて、どの瞬間もすごく好きだった。 本番までちょっとしかなかったけど、練習だって本当に嬉しかった。
長い余談
それってナンデスカ?
わたしは傲岸不遜で、世の中で自分が一番好きな、怠惰な人間である。だから脳出血だって起こしちゃったし、それで身体は不自由になった。
わたしの脳出血は2011年。ある日突然のこと。夜寝る前に自宅で突然転んで、そこから立ち上がれなくなった。何度も立ち上がろうとして、そのたびに転んだ。え、何コレ、わたし明日会社に行かなくちゃ、明日も研修がある。だから早く寝たいのに。
気がついたらベッドの上で、病院にいた。右手はだらんとして、左手しか動かなくなった。右足は引きずるしかなかった。え、何コレ。
歩けないから、危ないからと車いすに乗せられた。はああ?ナニコレ。
「命は助かるけど、障害は重いよ」え、それってナンデスカ?
脳出血で倒れたと聞かされた。知らないうちに日が経ってるようだった。
急に言われるオオゴト。
日本人の死因第4位の脳卒中。脳出血がその脳卒中のひとつであること、脳は損傷すれば不可逆的、つまり治療しても治らない事は、後から知ったし、右手も右足も動かないのは麻痺のせい、それは脳が損傷したせいだ、というのは、説明されて理屈はわかっても肚落ちはしない。左脳が出血したってだけで、右手も右足も麻痺して動かなくなった、なんて、急に言われても、そんなオオゴト、呑み込めなかった。
病気も障害も自分のせいだし、自分の責任だ。でも、自分でそうなりたいと思っていたわけではない。高血圧だったと言われたが、そんなこと知らない。だって別に今までなんも問題なかったし。誰も教えてくれなかったし。
だいたい脳の血管が切れたって、出血したって、自分で見えるわけでもない。ナニ言ってるの?それって本当?って感じ。自分が病気のリスクが高かったとか実際に病気になったとか?それってマジで?
全然理解できません
入院したのに良くならない。手も足も麻痺して動かない、それが治らないと「(後遺)障害」となる。治らないのであとはリハビリテーションで動かす訓練をするだけしかない。そうしたら良くなっていく、かも、だって。
それもそうなってから教えられた。
傲岸不遜で、世の中で自分が一番好きな、怠惰な人間が、こんなこと言われて納得できるはずない。ついでに自分の身に起きていることが全部理解できるほど頭もよくなかった。「ハア??」それしかない。
言えることは「何言っとんじゃ」とか、「わたしが何したって言うのよ?!」しかなく、この頃は理解できないことに囲まれて怒ってばっかだった。まるで語彙のないヤンキーですな(あ、そう言えば失語症もありました。5年目くらいまでは)。
38歳だった。若かった。まだ何も諦めていない年齢だった。いろんなことを諦めなきゃいけない年齢にはあと少しだったから、わかっていたから、身を粉にしていたのだ。“若いうちは頑張れる”、よく聞く苦労話は嘘だったというのか。
不自由な身体で生きていくくらいなら死にたかった。運命の神様を恨んだ。わたしは運命論者だが、それが与えられる意味がわからない。この身体で生きていく理由がわからない。
脳出血という致死性の高い病気を経て、身体も不自由になって、でも死なずに生きている理由がわからなかった。
運命の神様は忙しい
傲岸不遜で、世の中で自分が一番好きな、怠惰な人間が、納得せずに障害を持ってしまったら、それをすんなり受け入れられなかったら、何もかもが許せるはずはない。だって、そんな自分を生かす運命の神様だって許せないんだから。
生きのびて明日があることに感謝できるようになったのは後のことで、今日起きて未来があることを喜べるようになったのも後のことだ。
病院を退院し、少しずつこの身体で生きる日が増えていくと、これが“世間一般的でないがオリジナルな自分“と受け入れざるを得ないことを、「損」とか「罰」だと思わないようになった。その悔しさを見ないで、失敗だと思わずに済むように。バカで無知な自分が、失敗した人生の結果が、脳出血であり、動く身体を失ったことだと思わないように。
むしろ「運命を受け入れない」とこうなるのかも知れない。
時期は13年前、障害者は社会でまだ存在が薄かったし、バリアフリーという単語だって一般的じゃなかった頃で、社会が持っている不備はたくさんあった。わたしはその不備を突いて、それが見えていない人々に、他責的にそれを言い立てる嫌な障害者になった。
でも、そうなると逆に悟りも世界も開けるもので、たくさんあるこの社会の不備、いわゆる「社会課題」は、それを一緒に解決を考えてくれる人にたくさん出会えたし、時も流れて、時代が「障害があること」を責めなくなった。逆に生活でも何かと手伝ってくれる人が増えて、この身体で生きることも、迎える未来も、楽しいものと思えるようになった。
同じ障害の人にもたくさん出会うようになったが、違う障害の人と出会うことは未知のことをたくさん聞いて見ることで、それはどちらもとても楽しくて、世界が広がった。いろんなところに行けば行くほど、それは実績になって、どこでも行けるようになった。ひとり暮らしだし家に居つかないタイプで、旅が好きだったからそこが幸いして、出会う人がさらに増えた。不自由な身体は障害関係なく、いろんな人に助けを求められるようになった。
この身体になった理由はわからない。わからないから納得できない。でも、生きていく理由はあった。運命の神様はこういうことを与えたかったからわたしを生かしたのかなと思えた。わたしに急に恨まれて勝手に許されなくさせられた運命の神様は、こうして知らんうちに許されて勝手に和解させられた。いまや時々勝手に感謝されたりお願いされる存在になっている。
さらに長くなる余談
病気も障害も、自分が福祉の資格を取ろうと働きながら通う学校に行ってた時期だった。休学しても絶対に戻ってきなさいと言ってくれた恩師がいて、逆らえなかったから戻った(恩師は「資格も卒業もどうでもいい。君はこの身体になったんだから、学校に戻って人と縁を結びなさい」と、今になったらものすごく有難いことを言ってくれた)。
離婚したばかりで、がむしゃらに働いて勉強したくて、非正規雇用だった。会社なんて知らぬうちに辞めさせられていた。実家にも帰れなかったから、
ひとり暮らしするしかなく、お金がなかったら生活が出来ないから働き口を探したら、一般企業でも雇用率を上げて障害者雇用を義務化するときで、わたしみたいにロクに働いたこともない人間でも雇ってもらえた。
結果的にこれが社会復帰になって、学校は気づいたら2年の修了期間が過ぎて、普通に卒業できた(実習があっても会社は普通に休ませてくれた)。
卒業したら周りの同期が必死に国試の勉強してて迎合してしまい、自分だけ勉強しないのも悪いと思って、結局社会福祉士国家試験も受けて受かってしまった。 社会福祉士の国家試験は大して難しくない。ちゃんと勉強すれば普通に受かる。
お金を稼ぐために会社は続いた。生活のためには働くしかない。身体不自由とか関係なかった。学校も資格もそうだ。身体とか障害とか理由にならなかった。
でも、結局これが一番自分の自信になって、そのあとキャリコン(キャリアコンサルタント試験)も取れた。キャリアコンサルタントはのちに国家資格になって、いつの間にか国家資格は2つになった。
障害があっても別に何ともない。障害は障壁ではなかった。障害は何の言い訳にもならない。だからと言って褒められもしない。事実は事実なだけだった。
社会福祉士としての福祉の知識は、身体障害者である自分の骨格だ。法制知識は今も自分を支えている。結局3回転職して、社会福祉士として職を得た。専門職相談員、資格は肉だ。筋肉になってしなやかにわたしを支える。
恩師は今でも、わたしの恩師でわたしの気持ちを支えてくれている。
普通の人と出会って普通になる
夫とは7年前に出会った。視覚障害者の方がやっていたユニバーサルなまちづくりとかインクルーシブデザインとかの勉強会に参加させてもらっていた時期があって、今もわたしは視覚障害者の方が知り合いが多い。弱視の全国団体にも知り合いが出来て、その縁だった。
先天性の重度弱視で視覚障害者の夫は、中途障害の私より全然障害歴が長い。障害があることは彼にとって「普通」で、だから彼は自分に怒りを持たない穏やかな人だった。持ったこともあったと思うのだが、それはどこかに捨ててきている。年齢は5歳下だが、わたしよりよほど大人だ。
東北の田舎生まれだが、地元の盲学校に行かず一般校を大学まで出て、しかも大学はふたつも出てしまって、東京で普通に就職したので、普通の人だった。母が厳しくて甘えを許さなかったので、本人も障害こじらせ君になっていなかった。むしろ気遣いが出来て人心を読むのが上手い。生真面目だが父がユーモアのある温かい人だったからDNA的に非常に面白い人だった。
普通に人間に戻った
こういう人と出会ったから私はさらに自由になって、直ぐに一緒に暮らすようになった。夫もわたしもどちらも再婚で、他人と暮らすということがどういうことなのかわかっている。むしろそれがやりやすかった。
夫とは愛を睦みあうより何でも時間を掛けて話すほうが多かったが、どんな話題でも疲れずに面白い相手だった。夫は徹底して私の味方だった。私は味方が欲しかった。
自由と前向きが倍増して、楽しさが段違いになり、身体はともかく気持ちが障害から解放された。
私はもう、「障害者」ということに飽き飽きしていた。
身体は不自由でも「障害者」ではない、障害を負う前も後もわたしは私です、何にも変わっていません。わたしはいつでも普通に人間です、と言うことにしたら、周囲から立ち去る人もいたが、そういう人とは思考が合わないと思うことにした。「障害者は可哀想」という同情論で行動されている方は時々いるし、障害者がまるで人種が違うかのように扱う方もいて、それは批判はしないが、私は自分の経験がそれを全否定する。
わたしは障害があって身体も暮らしも大変です。でも普通に生活してるし楽しいし生きててよかったです。こんな調子乗りが不幸とか可哀想とかあるわけがない。
そもそも怠惰な人間なわたしは、「可哀想な人」でいる努力もできなかった。
ヒロガル世界
そういう中で、インクルーシブダンスに出会った。すごく嬉しかった。
小さいころから運動が嫌いで、今までは運動と言えばリハビリしかないわたしが、ダンスなんてもってのほかだったが、この身体になって初めてやってみたら、実はとっても好きだった。
不自由な身体が自由な表現をするパラドックスが、わたしを喜ばせた。リハビリは運動でも、ダンスは芸術だった。パラドックスが自由だった。
わたしの身体は、右半身は麻痺でも左半身は元気だ。そして一緒に動く。
それでも麻痺は変わらない。動かないところは動かない。
ならばどう表現すればダンスになるのか?どう動けば表現になるのか?どうしたら左右の身体はともに動くようになるのか?もしくは動いているように見えるのか?
そうやっていろんなことを考えることが楽しかった。
考えるプロセスもダンスだった。この身体であることが許されて、それでもいい、どう動いてもいい、というのがダンスだった。
そして再発
イベントの出演は、そうした中で出会った楽しい人たちがくれた機会だった。それはまさしくチャンスで、 最初に東京のイベントでお披露目をして、うまくいけばパリでも発表できるかも、と聞いていた。
ちょうどパリでオリンピック・パラリンピックが控えていたから、それを考えればありえない話ではなかった。
使った車いすは身体と同期して動くようになっていて、電動でも私と一心同体だった、はずだった。
私は車いすとコミュニケーションがとりたくて、お付き合いが短い期間でもそれを埋めたくて頑張ったと思う。3回の練習は緊張したけど、すごく光栄に思えた。
緊張のまま本番を迎えたのが悪かったのか?本番で車いすはちゃんと動いたのに、私が動けなくなった。
いや、私は動けなくなったことに気づいてなかった。周りが気がついたのだ。出番を普通に終え、ステージは終盤で全員で踊っていた時だった。
残り5分の舞台からすっと運んでもらったら、私は既にしゃべれなくなっていた。
救急車が呼ばれた。客席にいるはずの夫を探してもらった。
イベントはそのまま普通に終わった。周りがさっと動いてくれたことで、観客にあまり気づかれることもなくわたしは救急車で運ばれた。
近くにたくさんある大病院のうち、ひとつの大学病院が受け入れてくれた。脳出血を起こしていた。 脳出血の再発だった。
イベントを見に来てくれていた友人が、夫と一緒に救急車に乗ってくれ、状況が状況で動転する夫をサポートしてくれた。夫の目が充分に見えないことは、こういうときあからさまな不利益になる。知らない場所や暗い場所、起きるアクシデントに適確に動いて対応することは、視覚で情報が取れない夫には非常に難しい。しかもそんな時に救命に関する書類にサインするとか。
白杖を持っている人がそれが普通に出来たらむしろ詐欺だ。
13年めの脳出血
13年めの脳出血は、13年前とは反対側の脳で起きていた。半身麻痺は右半身だけでなく左右両半身になり、不自由は片手片足だけでなく両手両足になった。
でも、有難いことに無事に生き延びることが出来た。
今回の出血は前ほどの出血量ではなく、1/3程度に済んだからだ。
でも出血はやっぱり出血で、再発は再発で、もともとあった障害は重くなった。麻痺ももっと進んで、身体の痛みも強くなった。
出血は少量だったのに、なんで?
「左脳が出血したので、右脳が機能をカバーしてたんだよね。そこで右脳がやられちゃうと、カバーできなくなる。それで障害が重くなっちゃうんだよ」
そんな説明を病院で受けた。
麻痺は、今回は唇と舌にも広がって、しゃべることがおぼつかなくなった。構音障害というやつで、声も出せない。飲み込みも悪くて、水すら飲めなくなった。こちらは嚥下障害で、しばらくずっと流動食だった。13年前とは似て非なる現象が、脳の別の場所での出血を実感させた。
ここ何年か、動画も写真もたくさん撮りためていて、動画ではどれもわたしは楽しそうに歌ったり喋ったり歩いたりしていた。最初の脳出血から13年、わたしはリア充爆発で生きてきた。右半身麻痺だし、身体の不自由はあるがかなり自由度高い、思うままの生活を送れていたことは、それらが病院で証明してくれた。
前回と違って記憶の抜けや失語がなく、あからさまな高次脳機能障害がなかったから、意識が戻れば喋れなくても意思は伝えられた。最初は指で文字を書いていたが、それだと伝わらなくてちょっと大変で、50音表を使った。でも一音一音指で指すのも日が重なってどんどん面倒になって、そのうち「あー」「いー」、「うー」「おー」とか、息で出せる音を出して、そこにイントネーションが適切に加われば、はっきり単語は言えなくとも類推してもらえるようになり、「ありがとう」「おねがいします」などと、表情や動きをつけて言いたいことはわかってもらえるようになった。
不自由になった左手でもう一度携帯を打った。左手はもともと利き手交換して使えるようになった手で、今回の出血で麻痺してても多少は動き、そこそこは使える。最初から全然動かなかった右手とは違った。リハビリに希望があった。
他の部位にも気がつかない程度の出血を以前にしていたようで、再発は2度目、脳出血は3度目と言われたが、CTやMRIを見れば出血に伴う脳の機能欠損は少なそうで、再発でもそこに救いがあった。リハビリを続ければなんとか戻れそうだった。
生きてるだけでも儲けものだったからそれでよかった。
初期リハビリをやって、少しは歩けることもわかった。1か月と少しを大学病院で過ごして、リハビリ病院に転院した。
そしてそろそろ1年。
以前は2キロでも3キロでも軽く歩けたわたしは、前と比べれば全然歩けなくなった。遅かった足はさらに遅くなった。
今は相棒の車いす、COGYに頼っている。両手両足はまだリハビリを続け、しゃべることも充分ではないが、夫はなぜか私の言いたいことがわかるので、家庭の中では何とかなっている。
2度目は慣れている
2度目の麻痺はわりと落ち着いていられた。冷静だった。右半身だけじゃなく左半身の麻痺も負ってしまってはいたが、寝たきりが回避できたのと、脳出血が何なのか、麻痺が何でこれからどうなるのかが、13年の経験でわかっているからだ。わたしは静かな気持ちだった。今回は神様を恨むほど感情が動かなかった、と言っていい。
脳出血は再発する、再発したら死ぬ、だから絶対再発させてはいけない、と夫とずっと話していたので、再発しちゃったのはショックだったが、再発しても死ななかった、ということが、わたしを冷静にさせていた。やべえ、死ななかった、死に逃げしなくてよかった、ふー、、そのあとは黙ってよう、という感じだ。喋ることが物理的に不自由だったから、誰かと話すこともなかったのが、殊更に感情を刺激しなかったとも思えた。
リハビリ病院を入れて合計で半年、ハロウィンもクリスマスも正月も病院で過ごし、家に帰ってきた時には春が始まっていた。仕事は休職を続け、
在宅介護とリハビリの生活がスタートして、日常がやってきた。リハビリは通所と訪問で平日が埋まり、空いた時間にヘルパーさんと入浴や家事をする。職場復帰のための勉強は細々と。隙間を自分の時間に。
ヘルパーさんと家事をしていたある日、聞き覚えのある曲が流れてきた。
ダンスで使っていた曲。わたしがメインで踊ってた曲。透明で、のびやかで、ちょっと幻想的な歌。
柔らかくたなびく音に誘われて、部屋を出ると、音はテレビから流れていた。電動の車いすに乗ったわたしの知らない人が、わたしの知ってる振付で、わたしの知ってる曲で、知ってる人たちとダンスをしていた。
わたしの知らない人は、パリパラリンピックの会場の一角でダンスを終えた後、日本のテレビ局のインタビューを受けていた。
夏の終わりのはずのパリは、すこし寒そうで、みんな長袖だった。
静かな気持ち
パリパラリンピックで行われていた日本のインクルーシブダンスのイベントを紹介していたのは、お昼前のニュース番組で、わたしはそれを食い入るように観た後、そのままパソコン前に座り、番組に出てきた「知ってる」人たちにメールをした。パリお疲れさまでした。お帰りなさい、テレビ観ました。「わたしもとても嬉しい」。
彼らはパリパラリンピックでのイベントを終え、閉会の頃日本に帰って来ていた。連絡は途切れていなかったので、パリに行くことも、わたしが参加した昨年のイベントチームのまま踊ってくることも何となくは知っていた。知ってはいたけれど、よりによって前哨戦の東京でのプレイベントで、しかもイベント中に脳出血を再発させてしまった身としては、一緒に行って迷惑かけなくてよかったなと思っていたのだ。もしわたしが東京で無事に踊れていたとしても、パリで踊って再発させていたかもしれない。または、その準備中か、旅の途中で再発させていたかもしれない。そうしたらもっと大変なことになっていただろう。たくさんのひとにたくさんのことでもっと迷惑をかけていたろう。そう静かに思っていた。
「おめでとう」と言うことを忘れていた
でも、静かに思う以上のことはしなかった。してこなかった、ということかもしれない。
メールは思いつくままいくつか書いた。書き終わって、すこし涙が零れた。
やっぱりパリに行きたかった。踊りたかった。
再発して初めて、悔しいと思った。悔しさは今まで感じなかったのだが、感じないようにしていたのかもしれない。感情が静かで済むようにしていたのかもしれない。
在宅になってもリハビリはなかなか進まない。リハビリしてもあんまり伸びしろがない、回復は遅い、再発だからしょうがない、と言われている日々で、何事も今までの3倍くらいかかる時間と、少し歩けば寝込んでしまうほどの足の痛みや、手の痛み。眠れないほどの身体の緊張。3倍くらい重くなった障害と、ずっとおしゃべりが止まらないほどなのに今回はしゃべれなくなってしまったこと。ダンスが好きで、出会えて嬉しかったのに、急に取り上げられてしまったという現実。13年を楽しく生きてきたのに。やっとここまで来たのに。来たのに。
改めて感情を持てば泣きだして止まらなそうな今を、眠りにつく時に思った。でも、死ななかったんだから、生きてるんだから、これで良かったんだ。
イベントに出られない悔しさは自分からは絶対出してはいけない、わたしは急に踊れなくなって迷惑をかけた側なのだ。チームはそんな中でも代わりの人を探してパリでもイベントを終わらせたのだ。
むしろわたしは恨まれるほうだ。
メールの送り先から早速返事が来た。添付されていた映像は、東京でのイベントから始まっていた。わたしが踊っていた。パリでのイベントの映像も入って、終わりにダンサーとして、エンドロールにわたしの名前が流れる。
それを見た時に、イベントを無事に終わらせてくれてありがとう、成功させておめでとう。そして、忘れないでくれてありがとう。と、初めて自分の中で言葉が形作れた。
ここに至ってやっとそう思えたことを、恥じてしまった。
傲岸不遜で、世の中で自分が一番好きな、怠惰な人間であるわたしは、何度脳出血を起こしても、生きている限り結局自分の器の小ささは変わらないことに気づいた。
後記
再発してから1年経ち、その間の写真をさっき、ずっと見ていた。
どの写真も、わたしはすっごく笑ってて、いつでも機嫌良さそうだった。
全然落ち込んでねえなあー。痙縮がひどくなって手足痛くて泣きまくる日だってあったんだけどなあー。と言ったら、「おめえの代わりにオラが泣いてんだけど、なっ」と、夫が笑った。