見出し画像

克己心

紀元前中国の哲学者、孔子と弟子との問答をまとめた「論語」という書物があります。

その中に、

顔淵問仁、子曰、克己復礼為仁
 
という一節があります。
 
弟子の顔淵が孔子先生に、「仁とはなんですか?」と質問しました。
すると孔子は、
 
「自己の欲望に打ち克って、礼儀を守ることが仁である。」
 
とおっしゃったそうです。
 
ちなみに、「仁」とは現代では「思いやりの心」や「いつくしみ」という意味で使われていますが、恐らくそういうことで大差はないのかなと思います。
 
私はこの「克己心」という言葉が好きです。
特に、大事な出来事や勝負の前にはこの言葉を思い出し、身を律するようにしています。

「勝ちたい」という気持ちは厄介なもの

「勝ちたい」と思う気持ちというものは実に厄介なものです。
 
牌はいつの日もその佇まいを変えず、常に同じ姿で卓の上にいるものです。
たった136枚の麻雀牌ですが、その牌たちが織り成す組み合わせは
「一生の内で、2度と同じ配牌に巡り合えない」
ほどのもの。
それだけを考えても、麻雀は人間の手に負えないもの、人知の及ばないものであることと理解しておくべきだと私は考えます。
 
その牌を、「勝ちたい」という気持ちで人が触れる。
 
「勝ちたい」とは自分の都合。
 
「自分の都合通りに牌を御したい」

という考えはいかにも不遜で、美しくない考え方だなぁと思うのです。

 
そう感じるようになってから、私は麻雀の前で「勝つ」という言葉を発するのをやめました。
 
もちろん勝負事なので、良い成績を目指して打つわけです。
しかし、「勝つ」ということに意識が集中してしまうと、目の前の大事なことを見失ってしまう。
その結果、余計に勝てなくなるような感覚に陥ってしまうことがありました。

目指すのは「美しい和了」

目の前の手を、どのように美しい和了形に導いていくか。
さらに言えば、牌の声に導かれてどのような美しい和了形が観られるのか。
 
そこに意識を集中させるように心がけています。
 
ただ、ここで言う「美しい和了」とは、
「適時適切に為すべきことを成す」
という意味で、無理やりに高い手を狙うという意味ではありません。
 
場を平たくし、終盤まで楽しく締まった戦いを続けるための安い和了も「美しい和了」であると私は考えています。
 
そして、「美しい和了」は、自分のことばかりではありません。
 
相手が繰り出してくる和了だって、適時適切なものであるならば美しいもの。
そういうものを「美しい」と感じて眺められる余裕を持てたら、百戦危うからず。
 
常にそういう精神状態でいたいものですが…中々思うようにはなりません。

では、「克己心」とは?

そこで、冒頭の「克己心」です。
 
克己心とは何か?
己に克つとはどういうことか?
 
最終的には、「そこに自分がいなくなること」なのではないかと思うのです。
 
個人的な感情を捨て、相手が心地よく打てるように心を配る。
牌山を前に出す(推牌・トイパイ)、テンポよく牌を打ち出す、明確な発声を心がける。
 
全ては相手のため。
そこに「自分が」という思いが無くなれば、「仁」という言葉に近づくのかな?と。
 
 そんなことに日々思いを馳せながら麻雀のことを想うのですが。
牌に思いが届く日が来たらいいなと願っています。

と、こんなことを書いてみるのですが。
私のような一介のアマチュアが書いてもね。
説得力がないでしょう?

その説得力を得たいがために、私はいつも実績を求めてる気が…。
結局、俗の沼の中から離れられないジレンマを抱えたまま、今日も夜が更けていくのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?