麓郷の朝(富良野市)
ろくごうのあさ (ふらのし)
油絵 F4号 キャンバス 縦243×横334 2017制作
麓郷(ろくごう)は富良野市東麓郷にあります。
倉本聰の『北の国から』の初期のロケ地で、根室本線布部(ぬのべ)駅から車で15分ほど布部川に沿って上ったところです。
山の中腹に集落があり、昭和59年から富良野市の観光名所になりました。
宿泊施設はユースホステス程度でしたが、今はユースから民宿に鞍替えして営業しています。ロケ地めぐりの観光客は絶えませんが、朝夕の景色が素晴らしいところです。
北の国からー富良野市
空知川と富良野川の合流地点に富良野市があります。富良野と名の付く行政は4つあり、北から上富良野町、中富良野町、富良野市、南富良野町と続き、富良野市は中核都市になっています。
また、交通の要衝でもあり、滝川市からの国道38号線は狩勝峠を越えて道東に行く玄関口ですし、旭川から日高へ通じる国道237号線との接点でもあります。
更に、国道38号と並行して走るJR根室本線と、旭川からのJR富良野線は終点駅になっています。しかし、根室本線の富良野駅から狩勝峠を越えて新得駅までの約80キロは廃線が決まっています。道央と道東(十勝)を結ぶ鉄路で、明治40年(1907年)の開通でした。
この富良野市を有名にしたのは倉本聰脚本「北の国から」でした。
昭和56年~平成14年まで放映されたフジテレビの長大なるドラマです。
ロケ地となったのはJR根室本線布部駅からはじまる「麓郷の森」でした。
ロケに使われた主人公黒板五郎(田中邦衛)の丸太小屋や石の家などのセットは、そのまま観光施設として保存されています。
倉本聰は次のように語っています。
「北海道の情景の中に常に見られる一つのものがある。それは、厳しい北の歴史の中に無残に残された廃屋である。
たとえばこの富良野。かつての開拓の跡を見るがいい。既に見捨てられた草むらの中に眠るいくつもの廃屋をあなたは見るだろう」
「40年に及ぶ東京暮らしを捨て、僕が初めてこの土地に来た時、何よりも心を揺さぶったのは、この廃屋の情景であった」
「『北の国から』は、いわばその頃(昭和20年春の岡山県山奥疎開)の僕の心情の端を発している」
「やっぱり、ふるさとは富良野だ。まわり道して東京に育ったが、やっと戻れたふるさとである」
富良野のはじまり
ふらの名はアイヌ語のフラーヌイ(におう炎臭いニオイのするところ)に由来。十勝岳の噴気にちなんだといわれます。
明治 29 年に富良野原野殖民地区画の設定が行われ、翌 30 年福岡県三井郡出身の中村千幹(なかむら ちから)ら が現在の扇山地区に入植したことで始まりました。
中村は福沢諭吉の生地に近いことから慶応義塾に入学し、北方開拓の志をもって渡道。1300余町歩の土地賃下げを受け、北川清太郎、神代村次郎らが中心となり「筑後組合農場」を作りました。
明治32年には十勝線の鉄道工事が始まり、約20戸の仮市街もできましたが、中村は公務に奔走し村の発展に貢献、富良野開拓の父と呼ばれ後に胸像が作られているほどです。
明治31年に札幌農学校が第八農場を設け、小作人として熊本県人瀬口庄太郎ら3戸が入地、翌年には永森農場も開設、さらにその翌年山部駅が開業し、栃木県出身の小林菊次郎が山部駅逓を開いています。
大正15年、十勝岳が爆発し硫黄鉱山事務所をはじめ多くの犠牲者を出しました。
芦別岳(あしべつだけ)
富良野盆地の南西、富良野から夕張に連なるのが夕張山地です。
その山の塊の最高峰が標高1726.1mの芦別岳です。
地質の特性からか谷は深く刻まれ、尾根は岩がむき出しとなり通称本谷と呼ばれる地獄谷を中心に、北海道有数の岩壁がそそり立ち、アルプス的風貌から、北海道のマッターホルンと呼ばれていたこともあるといいます。
山部駅から20線道路を進み、約4キロで新道登山口があり駐車場10台分のスペースがあります。登山家は挑戦してみてください。
(山部地区は富良野駅から南下して二つ目に山部駅があります)
昭和41年山部町と合併し道内 29 番目の都市として富良野市が誕生。
富良野市は北海道のほぼ中央に位置し、西に夕張山系芦別岳、東に十勝岳連峰に囲まれ、清流空知川がもたらす肥沃な大地に、農業と観光を基幹産業に発展をしている田園都市です。
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