スピーチ@九州大学シンポジウム「爆発の起源」
皆さん、お元気ですか。日本での1ヶ月の滞在を終えて、帰宅しました。日本では福岡と東京で4つのイベントを通じ、懐かしい人と再会し、新しい出会いがありました。著作集という家族を得たラディカルは、これからも旅を続けます。
読売新聞の清水美明編集委員より、東京滞在中にタイミングよく取材を受けたあとの記事です。
以下は、イベントの一つ、九州大学でのシンポジウム「爆発の起源」で、最後にご挨拶したときのスピーチです。訪日のご報告として掲載させてください。
****
こんにちは。保苅実の姉、由紀です。
弟が死んでしまって、私を「姉さん」「お姉さん」と呼んでくれる人が3人に増えました。お会いしたことはないグリンジの男性Justin PaddyはフェイスブックでSis.と呼びかけてくれます。ミノルの中学高校時代の後輩で、ミノルが初恋の相手だったという彼女、そして、今回の企画をしてくださった飯嶋秀治さんです。私はオンラインで、相手が誰だかわからない状態でお話することはお断りしていますが、飯嶋さんのお声がけだったので、最後に一言お話させていただくことにしました。
私も弟も、小さい頃からたくさん本を読んで育ちました。
わたしにはムスコとムスメがいます。下の娘が大学に進み、ようやく子育てが終わって、存分に読書する時間を取り戻しました。在米30年になる私は、英語と日本語の両言語で話して書いて読みます。歴史小説はもちろんのこと、マイケル・ルイスや、マルコム・グラッドウェルも好きですし、最近は研究者の方から「歴史実践」をテーマにした献本をいただいて読む機会も増えてきました。保苅実の姉であることから献本されているわけで、自分では手に取らないような本を読むことになります。知識が広がるだけでなく、著者の方に連絡がつくので、好き勝手な感想を書き送るなんてこともしてまして、そんな類の読書経験ができるのも、ミノルのおかげだと感じています。
本を読むと、想像力が全開になります。そして、自分を取り巻く世界が広がります。
弟が亡くなって、初めて彼の博論を読んだとき、謎解きの旅をしたような感覚が残りました。事実と事実、記録と記録の隙間を、やはり小さい頃から小説を読むことで養った彼の想像力で埋める作業だったのだろうと思いました。
亡くなってから20年間はなかなかできなかったことですが、このたび、著作集二冊の編集と校正という作業を通じて、弟が書いたものすべてにもう一度目を通しました。オーストラリアという国に向かって、やっぱり想像力が全開しました。
ラディカルは、彼らしい形で、一人称や言葉遣いを変えながら効果的に、幅広いテーマを多角的に扱った一冊にまとめたと思います。そのうえで、この著作集を読むと、彼が扱うテーマの深さ、彼が一貫して世界に伝えたかったことが明確に見えてきます。
査読者に向かって書くのではなく、世界を変えるために書く。
同じ内容が重なっている論文をそのままの形で両方掲載したのは、彼が何を伝えることにこだわったのかを示したかったからです。それは、なぜグリンジが彼を受け入れてくれたのか、なぜ彼に語ってくれたのか、ということを彼がつねに考えていたということに尽きます。
そして、ジミーさんが語ってくれたこと、文書に残っている史実、その隙間を想像力で埋め、明確な目的をもって文章にしたのだと思います。
皆さん、ご存知でしょうか。著者を失ったラディカルの旅を、私は「つながる会」の活動を通じて20年間支えてきました。そしてそのラディカルの長い旅の結果が、著作集の刊行であり、今日のこの集まりだと思っています。
保苅実が死後のことまで見越してproduce した「ラディカル」を、私は陰で見守ってきました。研究者の皆さんが、どう「ラディカル」を解剖して批評しようと、私が出ていくようなことでも理解できることでもないという姿勢でした。
ところが、ミノルが世に送り出した「ラディカル」が、若い世代の研究者だけでなく、一般の人たちにまで出会い、そういった人達が、姉である私に声をかけてくれるようになりました。一般人同士っていうのがあったのかもしれません。
保苅実は、研究者としてジミーさんにまず出会い、一人の人間としてジミーさんに正面から向き合わざるを得なくなりました。「正しい道」とはなにか。それは一人の人間として向き合わなければならない問いだからです。ミノルには「正しい道」が見えたし、私にもはっきりと見えています。校正をしながら絶えず流した涙は、ミノルを失った悲しみではありません。弟が書き伝えた、グリンジの人々のストーリーの隙間を、私の想像力が埋めて見えたきたグリンジの経験を、この身体で感じたからこそ流れた涙でした。
保苅実は、研究者である前に一人の人間でした。そして、一人の人間として「ラディカル」を世に送り出したと思います。だからこそtruthfulness (真摯さ)という言葉の持つ意味とそれが目指すものを、保苅実とつながる会は大事にしています。
痛みと向き合う方法として弟がよく瞑想をしていたこともあり、最近私も瞑想のクラスに通いはじめました。週に一度、近所の図書館の一室で、インストラクターの声に誘導される30分を過ごします。私の頭は常にくるくる回っているので、瞑想の域に達しているとは到底思えませんが、機械に囲まれた毎日のなかで、そういう静謐な時間をもつことは大切だと思っています。
先日、前日に友達と夜中過ぎまでおしゃべりをして寝坊してしまい、クラスに間に合わないのでzoomで参加しました。ちょうどマンションの隣が引っ越したあとの工事中で、乱暴な音が入ってきました。窓を開けていたので、風の音が聞こえ、鳥の鳴き声も聞こえました。お隣さんが電話している声が聞こえました。つまり瞑想の域には達してないのですが、私の意識が今日やらなければならないことに飛んでいるのではなく、これこそが、「身体感覚を静かに研ぎ澄まし、身体を世界に開いてゆくことで、周囲に注意深くあること」だと気づきました。
「歴史修正主義の作業は先達にまかせておいて、我々はとっとと先に行かせてもらいます」
私はそれと同じ精神で、歴史実践を、Doing Historyを、広めていきたいと思っています。
歴史への真摯さ。そう難しいコンセプトではありません。歴史実践が日常のあちこちにある、というミノルの想像力を、いろんなかたちで探り、形にしていきたいと思います。つながる会は、「正しい道」を意識しながら、歴史に限らず、真摯に生きるということを常に考えて、活動しています。
明日は、本のあるところ ajiroで、図書出版みぎわの堀さん、ミノルに縁のあった飯嶋さん、一谷智子さんと対談させていただくことになっています。また、10月26日に東京神保町で、ミノルの一橋時代の友人で、著作集BOOK1に解説を書いていただいた山本啓一さんと、「保苅実を歴史実践する」というテーマで、彼と二度目の対談を、また11月1日は古書ほうろうで、BOOK2に解説を書いていただいた野上元さん、「保苅実の遺したもの」というテーマで対談します。
保苅実というキーワードに向かって人が集まった空間だからこそ、生まれるなにかがあります。わたしがお話する内容は、向き合った人たちの顔を見ながら少しずつ違います。わたしがオンラインで話さないというのは、そういうことです。
もうひとつ。保苅実記念奨学基金のことを少しお話させてください。
この奨学基金は、弟の死後すぐに、彼が在籍したNew South Wales大学 とオーストラリア国立大学に設立されました。どちらも遺族による多額の寄付で設立されたものではありません。中学時代から大学時代の同窓会やゼミを通じて、彼を教えた先生たちや友人から寄付が集まりました。その最初の寄付の勢いがなくなってからも、絶版になった訳書「生命の大地」や「ホワイトネイション」を買い取って再販した売上、わたしがデザインしたニットのパターンの売上や寄付集めのKnit-a-ThonというイベントもRavelry.comで知り合った編み物仲間達と10年間続けましたし、写真展図録の販売額と追加でいただいた寄付など、500円から何十万円というほんとうに大小様々な金額で寄付が集まり、とてもミノルらしい基金になりました。文字通り、世界中にいる保苅実につながる大勢の人たちの気持ちの集合体という基金として着実に大きくなりました。
つながる会のNOTEの記事に詳しく書きましたが、去年ある事情により、2つの基金は、オーストラリア国立大学でまとめてMinoru Hokari Memorial Fund として運用されることになりました。これまではフィールドワークを前提とした先住民研究への奨学金として、オーストラリアドルで毎年$5000授与してきましたが、今年から$6000に増額。そして、このたび、先住民族の言語を学ぶプログラムを対象にした$4000の奨学金をあらたに作りました。Stolen Generationが彼らの言葉を学びなおす助けをします。ミノルを受け入れてくれたグリンジにお返しがしたいというわたしの気持ちです。
どちらの奨学金も、オーストラリア国立大学の学生に限らず、オーストラリア国内のどの大学の学生でもこの奨学金を受け取る資格があります。また、基金がもっと大きくなれば、3つ目の奨学金をつくります。わたしの死後も、同じような方針で扱うよう規定されています。
御茶の水書房版のラディカルの著作権料は、弟が大勢の方に読んでもらいたいということで、価格を抑えるために一切放棄しました。2011年にオーストラリアでわたしが出版したGurindji Journeyの著作権料は、毎年直接基金に送金されています。岩波の著作権料は、つながる会の活動費ということで受け取っていますが、このたびの著作集と合わせて、最終的には、つまり私が活動を終了する時点で、オーストラリア国立大学の保苅実記念基金に寄付する形にします。
私にとって、この奨学基金は弟の生まれ変わりですので、弟が稼いだものはすべて基金に寄付するのが、「正しい道」だと思っています。
さて、飯嶋さんに、スピーチの最後は、保苅実が生きていたら何をしたか、について話してくださいと言われました。そんなことが私にわかるわけがない、と思ったのですが、一つ見つけました。
「歴史的真実(historical truth)」との対比で、「歴史への真摯さ(historical truthfulness)」への注目・シフトを訴えているのは、テッサ・モーリス鈴木である、とラディカルにあります。「経験的な歴史への真摯さ」Truthfulness を真摯さと訳すことに注目した彼をとても愛おしく思います。
著作集の校正をしていて、なにせ卒論は30年前、修論は25年前に書かれているわけですから、当時使われている言葉や訳語が、現在適切とされていないものがあるわけです。
Aborigineという言葉があちこちに使われていたのを、Aboriginal Peopleに修正しました。First Nations Peopleというのが最新の正しい用語のようですが、日本語でどう訳すのでしょうか。「先住民」には「我々の前に住んでいた人たち」というニュアンスを感じますが、First Nations Peopleというと、まず最初にいた人たち、となります。日本語ではなんといえばいいのでしょう。
保苅実写真展にはもともと「ラディカル・オーラル・ヒストリーとオーストラリア・アボリジニ」と副題がついていましたが、この1ヶ月間ajiroで展示している写真展では、「アボリジナルピープル」に変更してもらいました。残念なことに「アボリジナルピープル」という言葉しかないんです。
保苅実が生きていたら、オーストラリア研究者として、言語学者やアイヌやウイルタの人々と意見交換しながら、カタカナ英語ではない、日本語の訳語を見つけ出しただろうと思います。
皆様、今日はどうもありがとうございました。
****
それでは、また年末年始の定期便にてお便りします。
保苅由紀