「百姓レボリューション」×「子どもの最善の利益」の話
保育園というシステムで働くことについて考えた。
休みの日に仲間と田畑や里山整備をしている。
生業(なりわい)にしているわけではないので、農業ではなく「田畑」と呼んでいる。
自給自足を目的に発足したけど、まだまだ始めたばかりというところ。
そんな中、仲間におすすめされて読んだのが「百姓レボリューション」。
紙で読みたかったのだけど、住んでいる自治体の図書館にはなく、協定を結んでいる図書館にもなく、協定外の図書館から取り寄せていただいた。
その話についてはまた別の機会に書けたらいいなと思っている。
そうして、読み始め、3日で読んだ。
あらすじをサクッと語ると、東京で大地震が起きるとほぼ同時に日本経済が崩壊し、主人公が百姓ビレッジという場所で農業を学びながら生活していく話。
その中に、「システム」という言葉が何度も登場する。
私の中できちんとは消化されていないけど、私なりの解釈だと「システム」は「自給自足」と対をなす言葉であり、「資本主義を中心とした生産と消費の生活スタイル」のことを指すと思う。
働く人のために、子どもを預かる保育園というのは、社会の「システム」の一部で、私は社会の「システム」の中で働いているということになる。
この世の中でやりたい仕事を探したら保育士だったし、保育士として働くことに誇りをもっているけれど、もし、この本のように経済崩壊するならば、保育士という職業は不要になるのかな、百姓ビレッジでも分業制になって保育士という職業は必要とされるのかな。。。
もしかしたら、続編に書かれているかもしれない。
そのうち読んでみたいと思う。
長くなってしまったけれど、ここからが本題。
厚生労働省が出している保育所保育指針では、第1章の1の(1)のア、つまり一番最初の一文に「子どもの最善の利益」が登場する。
保育が誰のものなのか迷ったとき、何のために保育するか迷ったとき、一番大本になる根っこの言葉だ。
保育所は、児童福祉法(昭和22年法律第164号)第39条の規定に基づき、保育を必要とする子どもの保育を行い、その健全な心身の発達を図ることを目的とする児童福祉施設であり、入所する子どもの最善の利益を考慮し、その福祉を積極的に増進することに最もふさわしい生活の場でなければならない。
じゃあ、子どもの最善の利益ってなんだろう。。。
この本の中盤に、「指示待ち」になって自分で行動できない人が登場し、それは、システムに都合の良い人間が作られているからだということが述べられている。
そこを読んだときはっとした。
この先の世の中で困らないように、と思ってやっている保育は本当に子どもの最善の利益なのだろうか。
「小学校行っても困らないように」というのは、小学校ではやっていけるけど、本当に生きる力につながっているのだろうか。
「この先を生きていけるように」で想定している「この先」は所詮、今の「システム」の世界なんじゃないだろうか。
でも、この本はフィクションで、今の社会はすぐに変わるわけではないしなぁ……
この先うまくやっていくことができなかったら、社会が激動したらもっとやっていけないかもしれない。
ということはこのままでもいいのかなぁ……
あと、指示待ちになる子を育てている自覚はものすごくある。
本当は言いたくないけど、子どものやりたい!という気持ちに対して「ちょっと待って」を使うことが多い。
「ちょっとまって。先生が〇〇するから、いいよって言うまで待っててくれる?」
(例)自分でドアをあけようとした時。他の子の手を挟まないように配慮が必要。
(例)公園に到着してすぐに走りだしそうになった時。子どもが遊ぶ前に危険なものがないか見回る必要がある。
やはり、保育者として、大人として、子どもの安全を守らなければいけない場面は多いからだ。
保育園の子どもたちは保育者の監督下にある。
その結果、指示待ちをしたり、「先生!〇〇してもいい?」と先にきく子が育っている。
ケガをすることは子どもの最善の利益ではない、でも、指示待ち人間を育成している。
うーん、葛藤。
保育士という職業はチームで動く職業でもあるし、もちろん保護者もいて、その子に関わっているのは私だけではない。
「先生!〇〇してもいい?」というのは許可待ちではあるけれど、自分のしたいことを言葉にして表現し、やりたいことをやろうとする子どもの姿でもある。
うーん。
私がぐるぐる悩んでいる間にも、子どもたちは毎日すくすく育っている。
そもそも、幼児教育に正解や答えなんてないのだと思うし。
上手にまとまらないけど、今日はこれで終わりにしようと思う。
駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。