第23回 「倉橋惣三に学ぶ|個・分団・組」
『幼稚園真諦|倉橋惣三 著』
読むたびにあふれる気づきや学びを書き留めていきたいと思います。
この本は、昭和8年(1933年)夏の
「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。
実践からきている内容であることを踏まえると、およそ100年前の状況を見ることができると言えるのですが、知らずに読んだとしたら、現代に書かれたものだと思うほどに時を越えて響く内容です。
第23回は、
子どもの個と集団(クラス)の関係が
テーマとなっています。
第3編-3「個・分団・組」
前回のテーマである自由感と精進感の続きです。
自由感が満たされ自然と精進感へ移っていく。
それは個人個人でタイミングが違うのは当然です。
そのため、幼稚園の生活において、やるべきことが決まっている場合でも、全員で打ちそろって始める必要はないという内容から始まります。
ラッパが鳴ったらお仕事へ、といったことは精進感が自発的に起こっていない証拠です。
中学校の生徒のように、先生の顔が見えると教室全体が急に勉強家らしくなるというのではありません。(P111)
個から始まり、分団(グループ)に発展し、組(クラス全体)となる。
このとき必ずグループにならなければいけないというのではない。
しかし、今日の幼稚園(1930年代)は、組から分団へ、分団から個へと逆になっていると倉橋は言います。
組全体を先ず基にして、その中に ー 組では大き過ぎるから ー グループに分け、しかる上で ー 心理学上個の尊重から ー 個を取り出す。(P112)
これは倉橋の考えとは全く逆の順番だと。
幼児一人ひとりの自由感を大切にし、個の生活から始まっているのであれば、個からグループへといくのが自然の流れではないかと。
当時も共同という言葉が多く使われていて、個人製作に対するものとして共同製作と言われるものもあったそうです。
その共同製作では机の前に何人かをすわらせて「これをあなた方皆さんで作るのですよ。それでは仕事をどう分配しましょうかね」ということになります。
どうも我々には、全体を基とし、それの ”わかれ” として部分を考える癖があります。(P112-113)
幼い頃から「分けること」が美徳され、子どもからも「まるごとください」とは言えずに分けようとする。自分を大事にする前に、周りを全体を見よと言われる。
あるいは共同製作の中で、先生がここからここまでは誰々が担当してと言ったりする。これは非共同な心持ちであると倉橋は言います。
それぞれが個でやっていることが、だんだんと全体にまとまってくるのを認めたいと。
各々でやっていて、それが全体の中に入ってくる。
始まりが一人ひとりなのか。
始まりがクラス全体で、そこから個を取り出すのか。
これは現代でも向き合う問いになるかと思います。
自分のしていることは、それ一つとしては実にささやかなこととしか思えないが、それが全体の中に入っていくのを喜ぶのです。
それも全体の中を受け持っているからこそ働き甲斐があるといったような高ぶった考え方でなく、
一人ひとりが寄り合っていたら、全体がこうなってきたという喜びでありたいのです。(P114)
幼児教育は全体主義の生活ではいけないと倉橋は主張しています。
おわりに
ここからは私の考えです。
これは外発的動機と内発的動機の関連への理解や事実を観察する能力も求められるかと思います。
情緒面や属人的な部分で語られがちな保育ですが、学術的な理解や事実を扱うことなども含めて専門性を磨くことが、結果的に子どもの情緒の安定につながり、子どもの人権や心持ちをほんとうの意味で大切にできるのだと思います。
情緒を大切にする人は、情緒で言動を選択しません。
一歩引いた冷静な視点だからこそ生まれる温かな優しさがあります。
ー第24回に続くー
倉橋 惣三|くらはし そうぞう
1882年(明治15年) - 1955年(昭和30年)
静岡で生まれ小学生のときに上京。
フレーベルに影響を受け、日本の保育や幼児教育の礎を築いた人物。
日本での“幼児教育の父”、“日本のフレーベル”と呼ばれている。
食べることが好きで、幼稚園真諦の本文中に出てくる例えでは、「食事」が用いられることが多い。
享年72歳。
[参考文献]
・倉橋惣三 「幼稚園真諦」(フレーベル館・1976年初版発行)