父はADHD?8 感情爆発にさらされて
大人のADHDの存在が知られるようになって、わたしの父もADHDだったんだなと解釈するようになりました(もちろん診断は受けていないままですが)。わたしたちは子どもの頃から、父の感情爆発にさらされていたことを今更ながら実感します。
今更振り返ってごめんなさい。書くことでわたしは自分を癒しているようです。noteさん、ありがとう!
例えば、父は本屋さんや美術館に行くのが好きでした。わたしたちが小学生の頃、寝ずに起きていた父が「今日は〇〇市に絵を観に行こう!そのあとデパートで買い物して帰ろう!」と言い出すことがありました。
母はそんな急な提案に「今日は電車に乗れない」と大概の場合、断っていました。田舎にある実家から〇〇市まで片道2時間はかかるので、訳あって、30代後半から急激に始まった更年期の不定愁訴に苦しんでいた母は、日毎の好不調が激しかったのです。
わたしたちは父の爆発に身構えました。
「お前はなんでいつもいつも、そう言うんじゃー!」
と大声で怒鳴りつける父。一言も口答えしないまま母は泣きはじめ、隣で姉も泣いています。母のことをかわいそうに思う一方で、わたしは「今日の美術館はなくなったのかな?やっぱり行くのかな?どうしてお母さんは言い返さないんだろう?」と考えていました。その頃から、姉ほど母の痛みに寄り添えない自分を感じていました。幼かったんだと思います。
想像するに、父は新聞などで情報を知って「あの美術展に行きたい!」と思ったら、一晩寝ないで待っていたのです。父はいったん寝たら昼まで起きられないので。そして母に断られたので、期待が打ち砕かれるとともに怒りの感情を爆発させたのでしょう。こんなことは何度も繰り返されました。
母は「お父さんは手はあげないけれど、言葉の暴力をふるう」と当時(50年前)からよく言っていました。ADHDの知識が増える中で「言葉の暴力」ということばを目にすると、仁王立ちする父と、そのそばで泣いていた母と姉が思い浮かびます。私自身はその輪から少し離れたところにいる感覚です。
今なら「大人のADHD」という概念があって、それに対処する方法もWEB
で検索すれば、いくらでも出てくる。そんなことができない50年前、母が自身の体調不良と、父のADHDの感情爆発に耐えていたことは、今、振り返っても本当にかわいそうでした。
事態はどのように収拾していたのか?毎度のことですが、父は一日で自分の感情爆発については忘れ、母は数日間、口をきかず。父がなんとなく母の機嫌をとっている様子が見られ、いつの間にか元の状態にもどっています。けれども、根本的なところは何も改善されないまま。母は「帰れる実家はないけれど、父のいないどこかに行ってしまいたい」と硬い表情で押入れに荷造りしたボストンバックをしまっていました。
小学生のわたしは押入れのボストンバックをみるたびに心細くて、「母はわたしを連れて行ってくれるだろうか?姉だけを連れて行くだろうか?」と考えていました。あれから50年、父が亡くなって2年。
幼いころから、わたしは美術館に行くのが好きです。これは父がわたしに教えてくれた愉しみで、良きにつけ悪しきにつけ、父はわたしの父なのです。
お父さんはADHD?続きは下記より。