どうする?負動産の実家8 父の仕事
父の代わりに、父の終活をする
2016年に父が脳梗塞で倒れる前、
物忘れがはじまっていた2014年5月から、
私たち姉妹は、生活面での具体的な援助のほかに、
急に物忘れが激しくなった父の様子にあわせて、
「父の終活」を、父の代わりに行うことになりました。
わたしがやっていたことを振り返ってみると、
1・父の自営業の廃業。
2・自営業廃業にともなう、建物・設備の廃棄。
3・生活インフラの改善 OR 縮小。
4・運転免許の廃止と自家用車の廃棄。
5・買い物インフラの整備。
6・父の人間関係の把握と継続 OR 縮小。
7・金融資産の管理。
8・家屋の管理、貸借、売却。
こんな感じです。
父の自営業の廃止
父は大学4年間以外、この村を出たことがありません。結婚して実家に住んで、自営業を50年以上も続けてきました。
自宅の敷地に、25㎡ほどのプレハブの事務所があり、中には、本棚、椅子、デスク、テーブルなどの什器とコピー機、プリンター、書類、書籍の山がありました。
自営業は、国民年金しかないけれど定年もないので、家族にとっても、父が細く長く仕事を続けることは、悪くはないと思っていました。
しかし、2010年頃から、
確定申告にミスが増えて、わたしが代わって申告するようになったり、仕事相手との連絡を忘れるなどが重なり、わたしは、「大きな過失につながる前に廃業したら?」と言うようになっていました。たぶん父に、自分の人生の始末を、自分の手できちんとつけてもらいたかったのです。
そんな話のたびに、父は、「オレの生き甲斐を奪うんか!」と不機嫌になってしまいました。
2012年、帰省した冬のある日、家の前に、真新しい看板がかかっていて、仰天!「おとうさん、なんで今更、新しい看板なんて作ったのよ?!」というわたしに、珍しく父は黙っていました。この看板には、あるエピソードがあったことを、わたしは、ずいぶん後で知りました。
そんな父が、家族に物忘れがひどくなったと言われたからといって、仕事をやめるわけはありませんでした…。面と向かうと、父が興奮して怒って、話し合いは終わってしまう。
わたしは情けなくて戻りの新幹線で泣いたり、姉妹に鬱憤をぶちまけたり。こんなことが続いたら、本当に帰りたくなくなる。
そこでわたしは、父とは面と向かわずに、密かに話を進めることにしました。
実際には、父の仕事相手や出入り業者に電話をかけ、父の現状をふわっと話して、廃業する旨を伝えました。
驚いたのは、「そんなことはちっとも感じなかった」という声が多かったことです。1時間後には、話したことを忘れてしまっても、50年も続けた仕事のスキルは、身についていて消えないのだなぁと、狐につままれたような気持ちでした。
仕事相手や取引先には、口裏を合わせてもらいたいと頼みました。わたしが作ったポンコツな口裏合わせも、いつの間にか撤去された看板にも、父は、気づかなくなっていました。
密かに廃業をしたことに、後悔はしていませんが、父が、プレハブの仕事場で、「今日は人が来るんかなぁ?」と思いながらなんとなく過ごしている様子に胸が痛みました。それは半年余り続いたのです。
というわけで、いくつか継続していた仕事先がなくなり、2015年3月「廃業しました」という旨を記入した、最後の青色確定申告を出して、廃業が完了しました。
廃業後の仕事場の処分については、以下のnoteに書きました。