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オタクの実像 ~2000年代後半のオタク達~
今回の記事では2000年代後半のオタクについて、僕の実体験を書きます。2000年代後半はちょうど僕が大学生だった頃で、僕の周囲には何人もオタクの知人がいました。この記事では私やオタク友人の実体験に基づく歴史を書きます。なので普段の僕のブログの記事は"分析"や"紹介"ですが、今回の記事だけは"一人称の記録"、すなわち"一次資料"です。そういう物として読んでください。
僕が大学に進学して半年が過ぎた頃。それまで慣れない履修登録・第二外国語・TOEIC試験・レポート作成・運転免許の取得などに追われて訳もわからず大学生活を送っていた僕は、いつのまにか自分の周りに一人も人がいない事に気づきました。実家暮らしで通学時間が長い事もあって、大学と自宅を往復するだけのノンバイサー学生になっていたのです。僕はこの時始めて自分に社会性や人間的魅力がゼロな事に気づき、ショックを受けました。
それでこれまで友達の作り方がわからなかった僕はとりあえず演習授業の時に同学年の学生に挨拶する事から始めました。そして2回生になった時、そのうちの一人から大学のオタクサークルに誘われ、カラオケに行った結果そのサークルに入る事になりました。サークル名は「ごらく部」でした。
・オタクの実像 ~結局「オタク」って何?~
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オタクといえば、上記いらすとやの絵のようなバンダナ・チェックシャツ・リュックサック・メガネ・アニメTシャツのような、それで「○○たん萌えハァハァ!」「○○しか勝たん!ズッ推し!CD100枚買った!」とか絶叫しているイメージがあるわけです。敢えて語弊のある言い方をすると頭が悪そうなイメージがありますよね。
自分が大学生だった頃のごらく部にはそういうステレオタイプそのもののオタクはいませんでした。普通に高校時代に運動部だったオタクもいれば、痩せたイケメンのオタクも医学生のオタクもいました。もちろんメンバーの多くは部分部分で「なんとなくトロそう」「メガネはかけている」みたいに当てはまってはいますが、全然当てはまらない人もいました。むしろ僕(元オタ)が一番オタクのステレオタイプに当てはまっていたかもしれません。少なくともバンダナと指ぬきグローブだけはあり得ません。チェックシャツは着てました。
そして奇声も叫びませんし「○○萌え」とかも公共の場で言いません。ごらく部のオタクは「知性のある喋り方のタイプ」か「善良な性格のタイプ」のどちらかでした。そして話す内容も普通にレポートや就職活動の話です。そしてガンダムとかスーパーファミコンのゲームのような自分たちが好きな物事に対しては「○○は超面白い」とか「ここが笑える」とか普通に会話していたんですよ。それがオタクなんです。普通なんです。「○○萌え」とか言うのはインターネット上だけなんです。完全にステレオタイプなオタクって存在はするんでしょうけど、「完全に日本人っぽい日本人」が全体のなかでは極めて少数なように、特徴を全て満たす人はむしろごく少数だと思います。
・オタクの中のオタク
ごらく部には「コイツはオタクの中のオタクだな」と自分が心の中で認定した部員が2人いました。
一人目は「芥川」で、痩せていて身長が高く文学好きで、戦前の文豪のような風貌だったので芥川という渾名で呼ばれていました。 彼の偉い所は少女マンガを愛読していた事です。70年代、最初期のオタクは24年組の少女漫画を読むことが一種の知的証明でしたが、芥川も山岸・萩尾・竹宮を愛読していました。それだけではなく彼の書架には丸尾末広のようなサブカル漫画やアフタヌーン系漫画が一通り揃っていて、僕は生まれてはじめて共通の漫画の趣味を語れる友人を見つけて本当に嬉しかったです。
芥川は谷口ジローの漫画も読んでいて、まだ松重豊のドラマ版が人気になる前にも関わらず部内で孤独のグルメが大ブームになり、レストランに行った時は皆で井之頭五郎のマネをしました。
僕が石黒正数「それ街」・小原愼司「20面相の娘」・柳沼行「2つのスピカ」のようなオタク界で隠れた名作と呼ばれる作品を教えてもらったのも彼でして、また彼は「マリア様が見てる」のような百合や、「よつばと」「苺ましまろ」のような質の高いマンガ作品も愛好していました。 彼は僕の知る中で最も尊敬すべき漫画オタクであり、文系オタクで最良の素質を持つ人間でした。そして、70年代、米澤嘉博がコミケを創設した頃の漫画オタクとは本来彼のような人間だったんだろうなと今でも思うのです。以上挙げた作品は決して一般的なわかりやすいオタク史には残らない地味なアニメ・漫画でしょうが、それでもかつてそんな作品がありました。
二人目は「アテルイ」です。彼は東北出身で顎髭が生えていて、高校時代はハンマー投げをやっていた身長185cmのマッチョマンだったのでアテルイと呼ばれていました。 にも関わらず彼は絵や漫画が得意でした。彼は東方Projectのファンで、東方紅楼夢に一人でサークル参加した事もありました。その体格に似合わない繊細でファンシーな画風でした。彼の部屋には絵の資料本が沢山並べてありました。彼が液タブを操るのを見て、ZUN帽のヒダヒダをいとも簡単に描くのを見て驚いた事がありました。
彼は画力や膂力だけでなく、非常にユーモアセンスがあり気配りも出来て料理も上手な万能人間でした。部内のムードメーカーで、画家特有の神経質さが無い、分け隔ての無い性格でした。彼もまたオタクの中のオタクです。彼が好きなキャラは八雲藍でした。僕が好きなキャラは霧雨魔理沙です。
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・オタクの群像
ごらく部には部長がいました。彼は渾名が無かったんですが顔と性格がオモコロチャンネルの永田智に激似なので便宜上「永田」と呼びます。 永田はニコニコ動画の「チルノのパーフェクトさんすう教室」「エアーマンが倒せない」のような普通に当時のネットで流行っていた物が好きでした。しかし、彼は趣味嗜好は普通のオタクでしたが、自他共に厳しく責任感ある性格でした。そして麻雀などテーブルゲーム類も強かったので芥川やアテルイとは違う方向性で部内で一目置かれていました。
ウルフという男がいました。彼はインディーゲームクリエイターになる事が目標で、コミケでパズルゲームを頒布した事もありました。そう書くとギークのように思われるかも知れませんが、渾名の通り痩せた狼のようなイケメンでした。
BLACK LOTUSという男がいて、彼は部員全員に「俺の事をBLACK LOTUSと呼べ」と強制していた狂人でした。彼はMagic:The Gatheringのプレイヤーで、大会にも出場するほど真剣にプレイしていました。
σ君という人がいて、彼はあまりごらく部には来なかったんですがオタク文化全般に知識があり、彼と東浩紀「動物化するポストモダン」について議論したのを覚えています。一歳年下の後輩にψ君がいて、彼は綾辻行人が好きな推理小説マニアでした。
鉄風という男がいて、彼はくるり・NUMBER GIRL・SUPERCAR・the pillows・bloodthirsty butchersのようなロキノン系バンドのマニアでした。しかし「けいおん!」には一切の興味を持たず、むしろ「バキ」や福本伸行作品のような男らしいマンガを愛好していました。彼は自分でもギターを弾き、忘年会でエレキギターを披露しました。
2000年代後半は上記バンドや、あるいはBUMP OF CHICKEN・アジカンのような邦ロックが流行した時代でもあったのです。ロックは70年代の不良の音楽の時代から80年代のイカ天の時代、90年代のミスターチルドレンやB’zのようなJ-POP化したロックの時代を経て、2000年代は強い文学性を持った文系ロックの時代になったのです。なので当時オタクも全員アニソンを聞いていた訳では無く、ロックが好きでも不思議ではなかったのです(多数派という意味ではない)。それが15〜20年代経った今「ぼっち・ざろっく」「ふつうの軽音部」の人気につながっているのです。
ごらく部には医学部の学生もいてドクターK と呼ばれていました。彼はたまにしか来なかったのですが、後になって三田紀房「Dr.eggs」を読んだところ医学生というのは相当忙しい事を知り、彼は憩いを求めてごらく部に来ていたのかも知れません。彼は柔和で知的な人でした。
ごらく部=大学のオタクサークルにどうしてこんな多士済々が集まったかというと、やはり中学・高校までのオタクと比べて大学まで来ると「オタクとしての濃さ」がある程度選別されるんだろうなと思います。皆さんはオタクサークルに入っている人というと上記いらすとやのようないかにもオタクっぽい人を思い浮かべるでしょう。しかし、実際の大学のサークルにはむしろ「四畳半神話大系」の小津みたいな奇人変人が集まって来るものなのです。
・2軍
以上がいわばごらく部の1軍メンバーでした。そして僕は特に人より秀でた物が無かったのでいわば2軍メンバーにいたように思います。僕の他にそういうボンヤリしたグループにいたのは、θ君・χ君・φ君・μ君の4人でした。彼らは間違いなくで優しい性格で、人間としてすごく真っ当な紛れもない友達でした。しかし、僕や彼らは1軍メンバーのような「俺はこれが好きだ!」という強烈な意志の力を持っていなくて、陽キャでも体育会系でもない大学でのフワッとしたオタク的な人間関係を求めてごらく部に入っていた面がありました。大学のオタクグループの学生でもそういうタイプの人は一定の割合でいる物なのです。それが別に人間として悪い事でもありません。繰り返しますが良い奴ばかりでした。ただ、僕自身が二軍だった事について、大学時代の僕には「自分が損をしてでも人を楽しませる力」みたいな物が欠如していた点があったかもしれません。
その他に一時期女性部員が一名いた事がありました。僕たちがボンクラすぎて誰とも恋愛関係にはなりませんでしたが。結局、結束は保たれたものの「オタサーの姫」「サークルクラッシャー」って本当に存在するんだなあと思いました。
あと補足ですがアイドルオタクは一人もいませんでした。
・大学のオタクサークルでは何をやっていたのか
ダラダラしていました。毎週のサークル活動では主にレトロゲームに打ち込みました。誰かがスーパーファミコンの「ファイヤーエムブレム」や、M.U.G.E.N(当時流行っていた同人格闘ゲーム)をプレイし、他のみんなはそれを見守ったりしました。他にはBLACK LOTUSの影響でTCGをやったり、麻雀のようなテーブルゲーム類で遊んだりしました。
長期休暇などには大学近くで下宿している友人の家に集まって、アテルイが作った飯を食べたり安い日本酒を飲んだり、勝手に漫画を読んだりして朝まで過ごしました。そうして銭湯に行ったりキャッチボールをしたりしました。当時、部のみんなで夜通しやった「破壊王」「クーロンズ・ゲート」等のクソゲー鑑賞会は転げまわるくらい面白かったです。
我々はカラオケを特に好みました。大まかにロキノン系の曲を歌う人とアニソンを歌う人に分かれていました。ごらく部には富野由悠季作品が好きな人が数人いたので、キングゲイナーやブレンパワードの主題歌がよく歌われていました。他には記憶がおぼろげですがデジモンのような少年向けアニメが好きな人、ニコニコ動画の曲が好きな人がいたように思います。ψは歌詞が全部英語の洋楽ロックを歌っていました。
これが2000年代後半のオタク大学生の生活です。逆に全くやらなかった事は「コミケに始発で行って同人誌狩り」「部誌の作成」「メイド喫茶に行く」です。
・当時の地方在住オタク大学生の態度
ちょっと部のメンバーの話から離れて僕個人のオタ活の話をします。当時は「最新の話題のアニメを追いかける」という事が困難でした。例えばネットで何か深夜アニメの1話が話題になったとします。それでそのアニメを見ようとしても、既に放送は終わっているので当時は動画配信サービスのサブスクリプションが無いから見れないんですよ。VHS録画も面倒臭いし、録画ミスや野球中継の延長等で飛ぶ可能性もあるし、自分の部屋にビデオデッキが無いし、サブスクがあったとしてもクレジットカードが無いから登録できないし、色々厄介だったんですよ。
そういう訳で僕は専らTSUTAYAやGEOでDVDを借りてアニメを見ていたんですよ。するとそこでも「借りて返すのが非常に面倒臭い」「途中の巻が借りられている」「テレビアニメのDVDが全24話12巻ぐらいあってものすごくダルい」という問題が発生するんです。
なので実は当時の僕はアニメはアニメでも「過去のアニメ映画」を主に借りて見ていました。「攻殻機動隊」「機動警察パトレイバー 2 the Movie」「パプリカ」「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」等々。そうした結果、また別の問題が発生したんですよ。
眼高手低……目が肥えてしまったんです。
大学生の頃の自分は作画がハイカロリーでストーリーも小難しい劇場版アニメばっか見てしまった結果、萌え萌えな深夜アニメにあまり興味を持てなくなってしまったんです。もちろん「ハヤテのごとく!」とか「かんなぎ」とか知ってはいたんですけど、匿名掲示板のネタやエロ画像の題材として話を合わせていただけで、放送自体は見ていなかったんです。
むしろ当時は町山智浩の映画ポッドキャストとか、ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル、ブロガーの破壊屋さんなど当時の雰囲気として洋画が何となく人気があった気がするんですよね。なので、自分も劇場版アニメを含む映画を見まくって、あまり萌え萌え深夜アニメは見なかったです。
後はブックオフやゲオで申し訳ないんですがマンガを立ち読みしたり、100円のマンガを買ったりしました。テレビゲームについて強調したいのは当時まだソーシャルゲームが存在しなかった事です。ネット回線もみんな弱かったからネット対戦ゲームもあまり普及していませんでした。なのでオタクとして「流行りのゲームについていく」というより「過去の名作ゲームをやる」というムーブも当時は強かったように思います。大学生の頃の僕も一人で延々「サガ・フロンティア」をプレイするという、まるでジスマロックさんのような事をしていました。後は無双シリーズとかフロントミッションシリーズとか。
2000年代後半はPS2の時代なので、ゲームが1人でプレイするものだった最後の時代でした。それでマンガやゲームの感想を匿名掲示板に書き込んだり、ニコニコ動画を見て笑ってコメント打ち込んだり、2000年代全般のオタク活動は「他者と関りを持たない」「まだ辛うじて知識量でマウントを取れていた」ような傾向がありますね。
僕もそんな環境だったので社会性が育たなかったし、沢山のオタクの人格を歪ませたでしょう。
・友情の崩壊
僕たちが大学を卒業した頃は丁度リーマンショックの頃でした。ごらく部のメンバーも、就職先が見つからない者、大企業や公務員に就職した者、ブラック企業に就職した者、フリーターになった者、大学院進学した者など進路が別れました。卒業によって故郷に帰る人や上京して就職した人も多く、アテルイも北に帰っていきました。
それでも長期連休の頃は皆で集まっていて、昔のようにゲームやカラオケをして盛り上がったり、小旅行をしたりしました。
しかし、僕は当時ブラック企業に就職して体を壊して退職したり、なかなか転職先が見つからなかったりして生活が落ち着きませんでした。僕以外も長時間のサービス残業で体を壊した人もおり、当時は本当にひどい時代でした。それで僕は自分が社会で報われない事から、夢追いフリーターをしていたメンバーに嫉妬心を抱いてしまい、100%私が悪い非礼を働いてしまいました。その事から僕は永田とウルフから叱責を受け、ごらく部から絶縁されました。
その出来事以来、2025年現在に至るまで僕に友人は一人もいません。
・ごらく部を振り返って
僕がごらく部メンバーから学んだ事は「オタクでもセンスが良くていいんだ」という事でした。ゴテゴテの萌えアニメを見たりするんじゃなくて、地味で良質なマンガを読んだりしてもいい。アニメソングじゃなくてロックバンドを聴いていい。そういう、芸術作品の目利きとしての本家本元のオタクの原義を学ばせてもらったのが、僕がごらく部に入って良かったと思う事ですね。もちろん僕も「ギャラクシーエンジェル」のようなゴリゴリのオタクアニメも好きで、部内にもGAが好きな人がいて話がはずみました。そういうゴリゴリのオタクでもそれはそれで良い。
あとは、「ゆるやかな連帯で良い」って事です。話を合わすために覇権コンテンツを倍速視聴して消化・履修するんじゃなくて、誰々はロックが好き、誰々は東方が好き、みたいな感じで押し付け合わずにゆるく連帯できたのはオタクとして幸せな経験だったと思います。
その反面、人生のライフステージが変化したり社会が貧しくなっていってもオタクを続ける事って本当に難しいなって思います。
オタクである前に、良き人間でないと、オタクを続ける事が難しい……。