学歴社会を生み出す要因
「学歴社会」という言葉は、専門用語としてだけではなく、一般的にも非常によく使われる言葉である。
しかし、つきつめて考えてみると、それがどのような社会を指す言葉であるのかを明確に示すのは意外にむずかしい。
辞典には「個人が到達しうる社会的地位が、学歴によって規定される程度の高い社会」などと定義されているが、その場合の「高い」とは、なにとくらべて高い場合を指すのだろうか。
まず第一に考えられるのは、過去とくらべた場合である。
近代化とともに身分制度が撤廃され、教育制度が普及するなかで、多くの社会は社会的地位の配分基準として学歴を使うようになってきた。
その意味では、近代社会は多かれ少なかれ過去にくらべればみんな学歴社会だということになる。
第二に、他の社会とくらべて学歴の規定力が高いかどうかを考える場合である。
例えば、欧米にくらべて日本は学歴社会か、アジア諸国のなかで日本は学歴社会か、などとわたしたちはしばしば考える。
第三に、ほかの要因にくらべて学歴の影響力が強いときに「学歴社会」と考える場合である。
例えば、出身階層の直接効果にくらべて本人の学歴が地位達成に強い効果をもつ場合や、
「実力」にくらべて学歴が必要以上に重視されるといった文脈で、学歴社会といわれることがある。
このように考えてみると、学歴社会かどうかを判断する基準は多様であり、それはわたしたちが学歴現象のどのような側面を取りだして議論したいかによるのである。
教育の観点における学歴社会のとらえ方も一様ではないが、ここではつぎの3つの代表的な議論を紹介する。
まず、さきほどの第一の考え方のように近代化の文脈で考えるならば、学歴社会はひとつのメリトクラシー社会としてとらえられる。
機能主義の議論では、産業社会の進展により職場では高度な知識・技術が求められるようになるため、高い教育を受けた者がそれだけ重視されるようになると考える。
この場合は、学歴社会はなんら否定されるべきニュアンスはもたないことになる。
学歴社会は社会的必要に応じて生まれてきたというわけである。
しかし、ある職業に「大卒以上」といった学歴要件が求められるのは、そうした説明だけでは十分でないとするのが、葛藤理論の考え方である。
専門家によれば、高学歴化が進展すると、職務内容自体の高度化をともなわなくとも、その職業に就くために必要な学歴要件が引き上げられることがあるが、
これは特定の富裕層や身分を持った者たちによる地位独占の力学であるという。
そして、その際に重視されるのが、近大官僚制的(ピューロクラシー)な組織に浸透した学歴資格なのである。
同様にフランスの専門家の理論においても、学歴は階級間の象徴闘争のなかで文化的資源(制度化された文化資本)としてあつかわれる。
いずれの場合も、学歴社会は、身分集団および階級間の葛藤の産物ということになり、不平等や階級の再生産の問題とリンクしてややネガティブなひびきをもつことになる。
また、国際比較の視点から、とくに学歴社会化しやすい条件を提示した議論もある。
とある専門家の「後発効果説」である。
この専門家によれば、近代化の努力を開始する時点が遅ければ遅いほど、急いで先進国に追いつく必要性が高くなり、さまざまな制度や知識を先進国から輸入して上からの近代化を進めようとすることになる。
そして、近代化の推進を担当する人材を、近大的な学校教育制度の修了した者によって補充しようとすることになる。その結果、学校は立身出世ルートの象徴となり、後発国ほど学歴病にとりつかれてしまうというのである。この場合は、学歴社会は「文明病」として理解できる。
日本・アメリカ・イギリスの調査データから、日本はイギリスやアメリカと比べて学歴の影響力が大きいとはいえないことを明らかにした人がいた。
また韓国・アメリカとの比較データでは、日本の学歴意識は強いとはいえないとする結果も出ている。
このように、実証されたデータを見るかぎり、日本は他国とくらべて学歴社会であるとは必ずしもいえないことも多い。
しかし、一般に学歴社会というときには、わたしたちは他国とくらべてどうかということよりは、単純に日本で学歴が過剰に重視されているのかどうかが問題とされる。
日本にみられる学歴社会批判は、いったん取得された学歴を属性のようにみなされて、階級や性別による差別と同様に、それが真のメリトクラシーをゆがめるものと強く想定するところに特徴がある。
ヨコの学歴、すなわち出身学校がどこであるのかが大きく問題とされるのは、卒業学校の評判が本人の実力や教育内容とは別に、あたかも属性のように作用すると思われているからである。
そうした学歴意識が広く浸透しているという意味では、日本は広い意味でまだ学歴社会と言いきれる条件をもっているといえるだろう。