若き日に神話から見たものと、今の解釈。
ペルセウス座流星群を見たかったが、どうにも天候には恵まれず私は見られなかった。
ペルセウス。
…ギリシャ神話か、懐かしいな。
私は15歳で学校を親に辞めさせられ、本を読む時間だけは増えた。
いまでも本は好きだ。
たまたま手に取った、阿刀田高氏の「私のギリシャ神話」という文庫本を買ったことに始まり、最終的にはイーリアス、オデュッセイアも読み込みたいと望むレベルまでいった。
ギリシャ神話と日本の神話には似通った話が多く存在し、もともと日本の神話が好きだった私はとてものめり込んだのだ。
人類には根っこがある。
共通のイメージの根っこ。
共通の畏怖の対象。
なぜ、混沌(カオス)からはじまるのか。
なぜ、あの世は地底にあるのか。
なぜ、大地は母なのか。
なぜ、八俣の大蛇とヒュドラが似たような姿の怪物なのか。
なぜ、あの世のものを食べてはいけないという意識が根づいているのか。
なぜ、神が海より来るのか。
なぜ、ストリップで女神様のご機嫌が直るのか。
ただ、ただ、面白かった。
だが、私が18歳になる頃には私のテーマは
『神話で親殺し子殺しが横行するのは、それが生き物の本質だからではないか』
に行き着いてしまった。
いずれ、我に取って代わる存在になるであろう『ライバル』として、我が子を恐れる親の姿が神話にはよく書かれる。
我が子を喰い殺したり(❝丸呑みにした❞のが正解だが、ゴヤの絵のせいで喰い殺すイメージがある人も多いだろう)、我が子が子孫を残さぬように幽閉したり、我が子を追放したりする。
その姿は、私を『女』として敵対視してくる母の姿と同じだった。
我が子とは当然ながら、我より若い。
いずれ成長し、男子であれば力を持つ。
いずれ成長し、女子であれば男性から求愛されるだろう。
ただ、その頃の我は歳をとり衰えているであろう。
力では勝てない。
若さでも勝てない。
いずれ、我が子に負けるときが来る。
それを恐れるが故、我が子を疎む。
ああ、我が子を疎むのは大昔から脈々と受け継がれる、ある種の呪いなのだ。
それが親と子の関係性であり、また自分に勝る力や若さを恐れるのは生き物としての本能なのだ。
私がこんな状況に置かれているのは人類が大昔から背負っている宿命ゆえなのだ。
そう思っていた。
しかし、最近ではそれが大きな勘違いであったと思っている。
神話の登場人物は、『神』なのだ。
または、神と人の間に産まれた『半神』だ。
神や半神でなくとも、子を疎む人物は『国王』であるパターンが多い。
つまり、権力者だ。
いわば万能であると言っても過言でない存在だからこそ、我が子に取って代わられるのを恐れたのだ。
私は間違っていた。
私の親どもは王でも半神でもない。
ましてや神でもない。
権力者でも、万能でもない。
親も間違っていた。
取って代わられるような何かを持っていないクセに、私を疎んだのだから。
彼らは自分を万能だと思っていたのか。
権力などないクセに、私に取って代わられると恐れていたのだ。
家庭内でしか通用しない権力など広い世界では蟻のゲップみたいなものだ。
親殺し子殺しは生き物の本質などではなかった。
あくまでも権力者の思考回路だったのだ。
庶民には何の関係もない。
親猫が子猫の毛づくろいをする。
それと同じことを人間の親子もするものなのだ。
長い勘違いに幕が下りた。
(ちなみにペルセウスは王だったじいちゃんに国外追放されたんだけど、たまたま円盤投げ大会に参加したら、その円盤がこっそり観戦していたじいちゃんに当たって、じいちゃん死んじゃったんだよね…)