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オーストラリアワーホリ体験記!語学学校・ファーム探しのリアル【前編】
①語学学校での生活
私がワーホリに行くことを決め、選んだのはオーストラリアだった。
英語圏がよかったし、海の近くに住んでみたかったからだ。
正直、私はワーホリに行くまで海外旅行すらしたことがなく、今回が初海外だった。
いきなりイギリスに応募するのは気が引けたし、カナダは雪のイメージが強すぎて選択肢から外れた。
こうして始まった私のワーホリ生活だったが、幕開けは災難だった……。
渡航当日、妹が空港まで見送りに来てくれた。
私は不安と寂しさで涙が止まらなかった。
人生で妹の前であれほど泣いたことは、後にも先にもない。
前日までは楽しみだったワーホリが、現実味を帯びて不安になってしまったのだ。
「英語があまり話せないのに、どうやって生活していこう?」
「語学学校の間のお金は足りるかな……?」
そんな不安で涙が止まらないままオーストラリアに到着し、入国審査へ。
ところが——
「これはあなたですか? 偽造じゃないですよね?」
まさかの疑いをかけられた。
「は?」と思いながらパスポートの写真と自分の顔を見比べると、目が出目金のように腫れ上がっていた……。
泣きすぎたせいだ。
つたない英語で必死に説明し、なんとか入国できたが、冷や汗が止まらない入国審査だった。
語学学校には3ヶ月間通った。
シドニーの中心部にあり、アクセスが良かった。
日本人もいたが、ブラジル、ペルー、フランスなど、さまざまな国籍の生徒がいた。
最初の1ヶ月は初級クラス。
アジア人が多く、日本人や韓国人の子と仲良くなった。
ホームステイは1ヶ月だけで、通学は電車。
ホストファミリーはおじいちゃんとおばあちゃんだったが、彼らの英語にはまったくついていけなかった。
幸い、同じ家にいた韓国人の女の子が英語もシドニーの街のことも教えてくれて、最高のホームステイになった。
2ヶ月目からは希望して発音クラスへ移動した。
理由は、「私の英語が伝わらなさすぎて悔しかったから」だ。
でも、この選択が最高のスクールライフをもたらした。
発音クラスは会話中心だったので、クラス全員と仲良くなれた。
さらに、毎週末に決まったテーマで発表会があり、資料や英文を準備するのは大変だったけれど、発表後に飲むビールが最高だった。
その中で、アラビア人の子と仲良くなった。
それがきっかけで彼のシェアハウスに遊びに行ったり、一緒に海やパブ、カジノに行ったりとたくさん友達を紹介してもらった。
遅れた青春を取り戻すように、勉強と遊びに励んだ。
勉強して、飲んで、遊んで。
ナイトマーケットにクラスメイトとその友人たちと行き、異国の料理を楽しむ放課後。
クラブで朝4時まで遊んで、マックを食べて帰る金曜日。
フェリーに乗ってハーバーブリッジを見に行った休日。
スーパーでお菓子を買い込んで、バスで海へ行き、ぼーっと過ごす事さえも幸せだった。
ザ!海外!なことがしたくてクラスメイトとバーベキューもした。
クラスが終わる時には、みんなでホームパーティーをして、うるさすぎて怒られたくらい充実した学校生活だった。
3ヶ月目は中級クラスへ。
発音クラスの仲間とは離れ離れになり、よくも悪くも勉強に集中する1ヶ月だった。
語学学校時代、アルバイトはせず、勉強に専念するつもりだった。
……はずだったが、実際は「遊んでいた」「飲んでいた」という記憶しかない。
本当はもっと詳しく書きたいけれど、次の話を気にしている人も多いと思うので、このくらいにしておこう。
②家も仕事もなくした話
語学学校を終えた私は、2年目のビザ取得のためファームへ向かうことにした。
(オーストラリアで2年目のビザを申請するには、90日以上農場や工場で働いた証明が必要だからだ)
一人では不安だったため、Facebookでファームを探している女の子を見つけ
2人でケアンズのマリーバへ向かった。
……が、結論から言うと「仕事はなかった」。
さらに「家が最悪だった」。
仕事を紹介してくれる場所があったので、毎日通って仕事を探したが、「空きはまだないので待ってくれ」と言われ、
キャラバンに住む人たちにも尋ねたが、みんな自分の仕事を探している状態で、ただ残酷にお金と精神がすり減る日々だった。
そして、家。
ネズミとゴキブリは当たり前。
シャワーは浴槽の縁にぎりぎり立って入るレベル。
ベッドをアリが歩き回り、調味料の棚にはアリの行列……。
1週間が過ぎたころ、友人に「もう諦めたい」と言われた。
彼女は日本に帰ることを決めたが、私は諦めきれず、再びFacebookで仕事を探した。
すると、メルボルンで仕事を紹介できると言われたので、私は飛行機でメルボルンへ、友人はケアンズを観光して帰国することに。
しかし、メルボルンに着いてすぐ、一本の電話があった。
「農場のオーナーが逮捕されたから、仕事がなくなった」
……頭が真っ白になった。
家も仕事も同時に失ったのだ。
この、誰も知らない土地で。
頼れる人も近くにいない。
宿もない。
お金も底をつきそうだった。
私は仕事を紹介してくれたコントラクターに「私には住む場所も仕事もない!助けてくれ!」と連絡した。
彼は「分かった、どうにかするから裁判所まで来てくれ」と言い、私は電車で1〜2時間かけて裁判所へ向かった。
③12時間ドライブ
彼がいた裁判所の近くの宿に着いたのは夕方過ぎだった。
彼も今回の状況を把握しておらず、「オーナーが逮捕されたからコントラクターとして裁判所に来いと言われたが、現状が把握できていない」と言っていた。
彼は「とりあえず明日考えよう」と言い、その日は宿に泊まった。
翌朝、彼は「クイーンズランドの工場を紹介できるから、一緒にクイーンズランドへ向かおう!」と言ってくれた。
こうして、私たちの12時間のドライブが始まった。
(後編につづく)
後編では、工場生活、2年目のビザ取得までと取得後の話を綴る予定となっています。
信じられないかもしれませんが、書いた出来事はオーストラリアへ行って4、5ヶ月間の出来事です。
本当に濃いワーホリ生活だったなと今でも思います。
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