『美しい鰭』の”美しい”を考える 〜お歌詞を味わう〜
美しいのは鰭なのか。抗って泳ぐその姿か。
美しいって言っているのは自分か。誰かか。
というか美しいってなんだ。
劇場版コナンの主題歌 スピッツの『美しい鰭』を口ずさむほど気に入っているのだけど、歌詞をどう読んでも、MVを見ても、分からないことがある。曲名にもある「美しい」についてだ。
鰭についてはよく分かる。
世の中、抗いたいことはたくさんある。国、会社、学校、家族、ルール、しきたり、習慣、自分、生き方。人や社会の流れにいつも逆らっていたら、そりゃ疲れる。ボロボロになる。壊れる。それでも自分でいられるように、行きたい方に、目指す場所へ泳ぐ。
ここでは「抗おうか」じゃなくて「出し抜こうか」。この発想が現実味を帯びてて目から鱗感があって好き。流れに抗うんじゃなくて、流れを利用してやろうという企むような歌詞が面白い。流れる方へ向かうから、時に目指す方とは逆の方になって、離れることもあるだろうから見失わない”ようにしないとね”。(君を想える”ように”とは、君を想える”ようにするために”出し抜くんじゃないと思う。出し抜くためには離れる必要があるからそんな時も君を想える”ようにしたい”と解釈した。)「君」は恋人でも家族でもいいし、人じゃなくても通じる。
それでもいつかは?そろそろ?疲れて流される。そう。分かっているけど、それでも理想に向かっていきたい。「いつまでも抗ったり企んだり、強がることはできないと分かっているけど」っていうこの歌詞もまたリアルでいい。
んで結局、「美しい」ってなんだったんだろう。
MVでは母親と喧嘩した高校生ぐらい女の子が家から抜け出して廃校になる学校の体育館にギターを携えて行くところから始まる。そして小学生ぐらいの男の子が隠れていたり、絵の中の海の話になったり、母親や家族?や先生?が向かいに来たと思えば男の子に海を感じてもらえるようにみんなで海の音を奏でたりする。最終的には母と娘は仲直りする。
歌詞を見てみると、高校生ぐらいの親や先生などから旅立つ時期の子どもについて歌っていると感じれる。「びっくらこいた」、「よろめく」、「秘密を守ってくれてありがとね」、そして「もう遠慮せんで放っても大丈夫」。
もしかしたら「美しい鰭」いは、きれいに育った傷のない若い鰭という意味かもしれない。解釈のしようによってはボロボロになっていない・使われていない、という少し皮肉めいたニュアンスも感じるかもしれないがきっとそうではないだろう。それにしても「きれい」と「美しい」はほとんど同じ意味だが、厳密には少し違うように思う。「きれい」は汚れがないことが主体の言葉で、「美しい」は汚さも粗雑さも覆うような感動の言葉だ。
抗おうとしたり出し抜こうとしたりするその様子は決して「きれい」なものじゃないけれど、きっと「美しい」。そしてその様子が「美しい」のは、自分の信念(鰭)があるからなんだと思う。