9月22日
9月22日
前の投稿から少し時間が経ってしまった。鬱の症状が出て、PCを開く事さえ出来なくなった。体調には波がある。本格的な鬱症状が出始めて2カ月経つが、まだ、酷い日には起き上がる事が出来ない。今日は比較的マシなので、これを書いている。といっても何かを書こうと決めて書き始めた訳ではない。
私たちが生きている2020年代の日本には、充分に発展した医療がある。平均寿命が80歳を超え、90代まで生きる人も多い。明治や大正時代を描いた物語を読んでいると、治療する事が出来ない病気が多くあり、若くして配偶者や子どもを亡くすという状況が多く描かれている。もしも自分がこの時代に生きていて、そういった経験をしたら、医療や科学の発展を心から熱望しただろうし、自分もそういった勉学に励み、分野の発展に己をささげたかもしれない。大切な身内を亡くすような、「激烈な」経験は、人を動かし、渇望を生み、生涯をささげても構わないという「目的意識」となるだろう。
私はこれを考える。2020年代を生きる自分は幸いな事に、そういった死別を経験しなかった。さらには食に困る程度の貧困も知らない。100年前の暮らしから、世界は劇的に変化している。栄養豊富な食材が手に入り、世界は物資で溢れている。なんと幸せな世界であることか。しかし、である。世界は未だに闇で溢れている。物理的な意味での闇ではない。人を構成する、社会を構成する闇、それは時代の経過と共に濃くなっていくのか、それとも時間軸とも空間軸とも限らず、一定の場所に集中して発生するものなのか。私はこれまでにそういったものに触れてきたし、鬱症状が出ている最中には、世界の全てが闇であるように思える事もある。
19世紀の人達が、医学や科学の発展に没頭したように、私はこの時代が抱える問題点に対して、尽力したい。偉そうな事を書くつもりではない。だが人の幸せとは最終的に、誰かや社会に対して、自分が何か出来た時なのだと思う。だからこれはある意味自分の幸せを求めた結果、誰もがある程度辿り着く答えなのでは、と思う。では、それは一体何を以てして具体化されるのか。その事を考えると空白が私を襲う。
疱瘡で家族を喪った者が医学の道を志す、というようなシンプルなストーリーは私には無い。戦後の荒廃の中で一先ず物資を確保しなければならない、というストーリーも無い。私たちが向かい合っているものは、はっきりとした姿を持ち合わせていない。外部要因と内部要因の混ぜ合わさった、複雑な領域に存在している。言語化、標的の表現さえ難しいのかもしれない。だがはっきりとしている事もある。私たちはどの時代においても「生きていかなければならない」という事。濃密な闇を前にしても、何か方法を探して生きていかなければならないという事、である。
今、病状に波がある中で、私は自分自身を治療し、幾つかの生活を試し、記録している。そんなものも今後、投稿していけたらと思う。