9月30日

9月30日

「豊かさ」は地球上にどれだけあるか、を考えてみる。



「豊かさ」と「貧しさ」は反対の意味。誰もが貧しさを嫌い、豊かになりたいと思っている。政治家は勿論、私も、子どもも大人も、著名人から名も無き誰もまで同じである。

「豊かさ」=「所有する量」-「必要な量」だと私は思う。
在庫の数が、必要な量に比べて少なくなると、「豊か」ではなく「貧しく」なっていく。貯金や収入に対して、どれだけのお金が必要かによって、リッチにもプアにもなる。時間についても同じで、限られた時間の中、沢山の仕事があると貧しい気持ちになる。



貧困は世界中に在り、富は一カ所に集中する。人類は歴史的にも地理的にも、様々なところでそれに立ち向かい、打ちのめされてきた。人類の大多数にとって、「貧しさ」が身近であり、「豊かさ」は遠くにあった。

私たちは「豊か」になるためには稼がなければならないと習った。お金をたくさん稼ぐ事、物をたくさん所有する事、それがなければ「豊か」にはなり得ないと。歴史的には「他者から奪い、自分たちの所有を増やす事」を人間は繰り返してきた。そして結果的に私たちは「豊か」ではなかった。


私はある時期から、上の公式を想うようになった。「豊かさ」=「所有する量」-「必要な量」。つまり、「豊か」になる方法はひとつではないという事。「必要な量」を減らす事もまた、「豊かさ」を得る方法になり得る事。



「豊かさ」を目指している共通意識があるにもかかわらず、社会あるいは「国」が、生産性ばかりを求めて、「必要な量を減らすこと」に注視しないのは事情がある。経済規模が縮小するからだ。お金を使わせなければ、評価が下がる。「GDP」みたいなものを追い求めている限り、その国で、あるいはその地域でどれだけのお金が動いているかを、永久に追及していかなければならない。それは本当に意味のある、本質的な追及なんだろうか。



「必要な量」を減らす時には、なぜそれが「必要」なのかを考えてみるべきだ。「必要」というのは言い換えれば「依存状態」である。私たちはたくさんのものに依存している。

持病のある人には薬が必要だ。片頭痛持ちの私にとって、頭痛薬は「必要」なものである。それがなければ生活に支障が出てくる可能性がある。災害時、避難をしなければならない時にも、持っていかなければならない物である。そういった物の数が増えれば増える程、人は「貧しく」なっていく。抗うつ剤は、私にとって今「必要なもの」と、そうでないものの中間にある。なんとか「必要なもの」にならないように留めたいと思っている。

アルコール依存、ギャンブル依存、薬物依存、そういったものは「貧しさ」の象徴となっている。やはり「依存」すれば人は貧しくなるのである。



依存性のあるものかどうか、という視点はアルコールやギャンブルみたいな典型例だけでなく、幅広く持ってみるべきだと思う。私たちはスマホ依存だし、あらゆるサブスクも依存に近いものがある。電気・水道・ガスといったインフラも、無くては生きていけない。これらは「依存」というより「必要」という言葉の方がふさわしいかもしれないが、「無くては生きていけないもの」という意識が強すぎれば「貧しく」なることに変わりはない。



「電力依存」に関しては非常に思うところがある。私たちの暮らしの「デジタル化」は「電力依存の激化」と言える。全てのデバイスは充電するか、電源につながなければ使えない。つまりこの先なにもかもが電子化すれば、電力無しに生活が成り立たなくなる。電力会社のさじ加減で、私たちの暮らしはコントロールされてしまう。AIに依存した社会が完成したあとに、社会が電力そのものを失う、もしくは供給量が激しく落ちることがあれば、何が起こるだろうか。



家計の支出を再確認してみると、私たちは何に依存していて、なぜ「貧しく」なっているのかを理解することに近づく。日本人はDIYという習慣が希薄で、簡単に何かに依存する。会社に依存し、コンビニに依存し、テレビに依存する。そのへんを見直せば、少し「豊か」になることは、それほど難しくない。

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