著者ジョアン・ハリファックス博士に『コンパッション』について尋ねてみました
日頃から「コンパッションとは何か」を明確に把握することは、とても難しいと感じているのですが。
2023年4月、ジョアン・ハリファックス博士が来日して様々な活動をされるにあたり、いくつかのワークショップをお手伝いするために直接お話を伺う機会に恵まれ、質問をさせていただきました。
書籍では、コンパッションとは「人が生まれつき持つ、自分や相手を深く理解し、役に立ちたいという純粋な思い。 自分自身や相手と、共にいる力」であると書かれています。
また、別のセミナーでは「他者の経験に気づかいながら、最善を願い、何が一番その人に本当に役立つかを配慮すること」と説明されています。
それは本能的に持っているもので、共感をベースとしており、好奇心と思いやりをもって育んでいけるものだとのこと。
いずれにしても、慈悲や思いやりと訳されることも多いように、相手を思いやる気持ちから湧き出るものであることは理解できます。
そこで疑問に思ったことがありました。
例えば、どうしても嫌悪と憎悪しかない相手がいるとしましょう。
共感も全くできないし、むしろ不幸になってくれたらザマミロと祝杯をあげたいし、できるだけ凄惨な死を与えたいと願ってしまうような相手。
そんな人に対して、「相手も人権を持っているから」という法に基づいた思考と理性で公平に扱おうとすることもコンパッションといえるのでしょうか。
つまり、本能や感情で共感を持てない対象に、慈悲心でも思いやりでもなく、思考と義務感で対応することはコンパッションなのか、という疑問です。
私自身はそれもコンパッションであると思うのですが、一般的な説明とは矛盾するようにも感じ、理由が説明できなかったのです。
老師のお返事は「まさしくそれはコンパッションである」ということでした。
「相手も人権を持っている」とは、自分と同じく相手も人間であるという認識と、同等であろうとする想いが根底にあるからこそであり、そこに基づいて行動することは、状況から起こる自分の感情というバイアスにもとらわれず、あるがままに物事を見て最善の行動を選択することであるとのこと。
(正確な表現ではないですが)コンパッションとは相手に好意を向けたり、心地よい関係になることではないのだ、ともおっしゃっていました。
つまり、思いやりと聞いてポジティブに連想されやすい”快い状態”にすることではないということです。
それを聞いたことで様々なことが腑に落ち、「思いやる」とはどういうことなのか、私の捉え方が狭かったことに気づきました。
コンパッションはとても深く、解ったように感じてもすぐに惑いやすいので、繰り返し学び続けていくことが大切だと改めて思いました。
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