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テティスの逆鱗を読んで〜精神的畸形が放つ美しさの危うさ〜

というわけで、テティスの逆鱗を読んだ。読みたくて堪らなくて、すぐ本屋に駆けこんだ。きっかけはTwitterで見かけたレビューで、名も知らない誰かが書いた推薦文が響いてしまった。元々は美容整形をテーマにした作品が好きなのかも知れないが。ヘルタースケルターは擦り切れるほど読んだ。巻頭にある「笑いと叫びは似ている」という言葉と、完璧なフリークスであったりりこの顛末は未だに忘れられない。

少し昔の話をしよう。まだ分別のつかない子供の時分に親の整形外科の診察券を見て、「どうしよう!私の親は整形をしている!もしかして、犯罪者なのかも!」と勝手に思い込み誰にも言えずに悩んだことがあった。耳年増だったのだろう。子供ながらに整形というのは顔を変えざる事情がある人が行う、あまり表立っては言えない行為と認識していたらしい。我ながら思い込みの激しさが窺えるエピソードだと思う。もちろん親は整形などしていない。それを知った時、心底安心した。今思えば何故だろうか。当時は、整形=悪いことと認識していたのは間違いない。しかし今思うのはたかが皮膚一枚を切り刻んだくらいで、その人の本質さえ変わってしまうのだろうか。ということだ。

2021年現在、アイドルでさえ整形を公言して憚らない時代になるとは誰が予測出来ただろう。遺伝子勝ち組を口癖にしている元ZOCの戦慄かなのは、整形を肯定的に捉えアップデートと称している。彼女が仲違いした筈の大森靖子と容姿が似通ってきているのは、皮肉としか言いようがない。容姿は簡単に可視化され、その評価が数値化され共有される時代になった。ルッキズムは加速し、未成年の希死念慮と自殺は増えている。美しくなければ見向きもされず、誰からも愛されないとでも言わんばかりに。これからますます、整形に対してのハードルは低くなっていくだろうと思う。

美しいという基準や意識は文明や社会によってつくられたものと、本能的に人間が持つものに分けられると思う。そのどちらにも当てはまるのは、かくありたいという湧き上がる欲求なのだろう。何故かくありたい、つまりは美しくないたいという欲求は湧き上がるのか。突き詰めて言えば、人は常に自分以外の誰かに求められたい。認められたい。愛されたい。本来ならば工程を経て得られる評価や報酬を、簡単に手に出来るもの。その最も早い方法が、美しくなるということなのだろう。

美しい顔というのは、つまりは平均顔である。整形顔がみな似たり寄ったりなのは、全てのパーツを平気に近付けるからだ。これといって特徴の無い、左右対称の、そして疾患の無い皮膚であれば、おおよそそれは美形たりうる条件になるだろう。美しい人が好まれるのは、恐らくは顔面というのは健康的で優秀な遺伝子の持ち主であるという証であるからだ。だが、美容整形はそれをねじ曲げている。疾患の少ない、健康で優れた遺伝子の真似事をしている。つまりは騙しているわけなので、だから人は整形を嫌悪する、という説を何かで読んだ気がする。誰だって、遺伝子勝ち組になりたい。持てる者になりたい。だが、それはごく一部だ。持たざる者が持てる者になれる手段があるとすれば、その一番手っ取り早い手段もまた美しくなるということなのだろう。

だが、少し見渡せば分かる筈だ。別に美しくなくとも優秀でなくとも、幸せな人はごまんといるいる。幸せになれないのは美しくないからでも馬鹿だからでもない。美しくなければ愛されないし幸せになれないという呪い、思い込みだ。己を病ませているのは他ならぬ自分自身だと気付かない限り、自分で自分に呪いをかけ続けるしか無い。自らに欠けたものの輪郭が分からないまま、永遠に固まらないセメントを流しこんでいるようなものだ。肉を切り骨を削り皮一枚の美しさを追い求める。それはきっと永遠に終わりがない、ある意味自己表現でもあるのだろう。

狂った人間の持つ危うい美しさは、凡人を魅了してやまない。恋に敗れたオフィーリアの入水に恋焦がれない人間はいようか。肉体は確かにこちらにあるのに、魂や心をあちら側へ、つまりは彼岸に置いてきてしまった者たち。そんな精神的畸形を、おぞましくも美しいと思う。自らの病んだ魂を癒やすように、美しくなることで自らを治療していく患者たち。その患者たちを癒すことを生きがいにしつつも、更に狂わせていくことだとうっすらと自覚する罪深さ。魂が欠けたフリークスたちという作品を、今まさに生み出していると自負する医者。どいつもこいつも狂っているが、おぞましいほどに美しい。そして憐れだ。

醜く死んだ母親のようになりたくないと整形を重ね、身も心も化け物に成り果てた娘。彼女の最後の良心は他人を傷付けないことだった筈だ。だが美しい鎖骨と膝小僧を手に入れる為なら、今は殺人すら厭わないだろう。彼女に必要だったのは、悪いことをしたらダメだと引っ叩いて止めてくれる大人だった。それは本来父親や母親が担うべきだった。父親は若い女に精を放つことに執心していたし、母親はカロリーで満たすことで現実から逃避していた。運転手は中途半端な優しさを見せたばかりに、最後の最後に彼女に呪いをかけられた。彼女が狂ったのはいつからだろう。死んだ愛犬を冷凍庫にぶち込んだ時か?置いた愛犬を整形しろと迫った時か?耳をそぎ落とせと喚いた時か?母親を、見殺しにした時か?恐らくはきっと、最初から「こう」だったのだろう。

美しいとチヤホヤされ、他人と正当な関係を結ぶ手段を性的資本でしか見出せない女優。彼女がほんの少し賢ければ、永遠に美しいものなどありはしないし、人肉を食べても若返りはしないとと気づけただろう。彼女に必要だったのは、刻まれた皺やシミを綺麗だと撫でてくれる人だった筈だ。誰一人、彼女の狂気には付き合いきれなかった。彼女を煽て囃し立て立派な商品に仕立てた女社長が居なければ、彼女は平凡でつまらないごく普通の女として幸せを享受していた筈だ。恐ろしい悪魔メフィストの誘いに乗ってしまったが、残念ながら時は止まらないし美しくもない。

皮一枚の美しさで成り上がった娘が皮一枚の醜さから転落していく様は、まるで現代の御伽噺だ。彼女が重きを置いているのは正真正銘の上辺だけであり、それが取り繕えるのであれば友達の生皮を剥ぐことすらなんら厭わないだろう。まるで羅生門の鬼婆のように。結局は彼女もまた皮一枚、つまりは上部のステータスでしか人を愛せなかった。もし彼女が本当に愛し/愛されていれば、彼は分厚い手切金ではなく良い医者を探す手伝いをしてくれただろう。彼女が愛されなかったのは、外見が美しくなくなったからではない。美しくなければカバー出来ないほど、中身が醜悪だったからだ。

本当に欲しかったものは既に手にしていたのに、熱に浮かされ自分から放り出して捨ててしまったものに縋り付く女は一等愚かで浅はかだった。そして、身も心も一番手遅れである。

今まさに、自らが生み出した怪物達に最も大切なものを喰われようとしている女医。彼女が軽んじたのはなんだったのか。自らの卵子か、それにより生まれた命か、自分が弄ってきた患者の尊厳か。かつては、シンデレラのエステティシャンのように誰かを幸せに魔法使いになりたかったのかもしれない。それは誓って本当だろう。誰だって崇高な目的はある。だが時を留めるという神に等しい技を手にし奢った結果、プロメテウスのように生きたまま内臓を突かれるのは明白だ。作中では美しくすることで何かの逆鱗に触れてしまったと言っていたが、魂にメスを入れるというのはやはり人間が立ち入る領域では無いと思う。ゴーストは皮膚に宿ると云う。ならばそれを切り刻むのは、本質/魂/精神を切り刻むに等しい行為なのかも知れない。

しかし彼女らは生まれながらの精神的畸形であり、整形により開花したのはあくまできっかけでしかない。果てしない欲望と満たされない飢え、それらが絡み合い醸し出す狂気はとても心地良い。彼女らが本当に欲しかったものは、恐らくはこの世のどこにも無い。無償の愛を注いでくれる優しい聖母も、永遠に変わらぬ美しさも、愛の変わらぬ情熱的な伴侶も、お金持ちの王子様も。全ては御伽噺である。無いものねだりをせずに済む情緒が、禁忌だと踏みとどめる倫理があれば、彼女らはここまで不幸にはならなかっただろう。永遠に得られぬものを追いかけながら体にメスを入れ続ける彼女らが、どうしようもなく憐れで愛おしい。

女医に依存していたのはこの四人だけではないのだろう。自らが丁寧に作り上げた怪物達の復讐は、ドア一枚隔てた向こうで今まさにゆるやかに始まろうとしている。恐らくは秋美も女医も、彼女らの手によって見るも無残に殺されるのであろう。暴漢に貝殻で肉を削られた、賢いヒュパティアのように。そうしてフリークスらは自らが欲しかったものをようやく望むべくして手に入れる。その瞬間、彼女らははたと気付く筈だ。一体誰がこの肉を、骨を、内臓を、皮膚を私たちにくっ付けてくれるのだ。一体誰が、己を美しくしてくれるのだろうと。テティスの逆鱗に触れたのは女医だけではない。美しくを奪おうとした欲深い彼女らもまた、その身にふさわしい罰を受けるだろう。それらを想像させながら、物語は厳かに収束する。

あっという間に読み切ってしまった。後味の悪い思いをしたい方はぜひ読むべき。

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