サロメとユディトと耽美主義
大学後期の授業で芸術学をとっているのですが、その中で、映画「サロメ」を鑑賞しました。以下、気づきの忘備録です。
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「サロメ」とは古代イスラエルの娘の名で、洗礼者ヨハネの首を切り落とさせたことで有名らしい。
映画鑑賞中、以前興味を持った2枚の絵画に思い当たるような節があり、調べてみた。
案の定、その2枚の絵画はサロメともう一人の女性を描いたものであり、クラーナハの《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》と《ホロフェルネスの頭部をもつユディト》と言うようだ。
別の人物を描いているにもかかわらず、その構図は瓜二つである。
(※以下グロ注意)
サロメと対称的に描かれているユディトは、自身の美貌を利用して敵に接近し討伐したという。
サロメとユディトのモチベーションこそ違うが、あえて同じ構図で描かれた2枚の物々しい雰囲気は、その構図を反復することで、強い企みを持った女性の狂わしさや恐ろしさを象徴的に表しているようにも感じた。
そんなことを考えていると、偶然クリムトの《ユディト》を目にすることとなり、そのタイムリーさに驚いた。
クリムトが描いたユディトも、右下に男の首が描かれている。
また、サロメといえば、ビアズリーの挿絵は現代でも人気が高い印象がある。
どうやら、クラーナハの絵画は弟子を使ってまで量産するほど人気があったようだし、この時期に耽美主義が流行していたこともあり、猟奇的な女性への憧憬があったのだろうか。それにしても人気すぎではないだろうか。
また、サロメ、ユディトを元ネタとした絵画が多いことから、ネクロフィリア的嗜好が現代よりはオープンであることも感じ取れるような気もする。
そのような当時の価値観に違和感と気持ち悪さを感じながらも、それぞれの作品で描かれているサロメとユディトの恍惚とした表情からは、作者によって表情は違えど、彼女らの狂的な心境や高揚感も見えてくるようであり、結局、これらの作品に目を奪われてしまうのだ。