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加速するテクノ・ゾンビは、テクノ・ブラフマンとなれるのか? (後編)

存在代行と中動態

しかし私は、ここで、身体の再構成を行ってきた実践者として、今一度立ち止まって考えたい。主体を失い、操作されてしまうことの身体感覚についてである。

私は、これまで、10回ほどUber Existenceの存在代行を行ってきたが、その中で興味深い感覚を掴んだ瞬間があった。それは4回目の勤務のことだ。ユーザーが私の身体を借りて、ユーザーの友人と公園で談笑する場面があった。それまで私は、いかに自我をなくして、従順に指示に従えるようになれるかということを考えていた。恥ずかしいという感覚や、気まずいという感覚によって躊躇してしまい、ユーザーの指示をそのまま遂行することができなかったからだ。しかし、この回で、その友人がしゃがみ込んで「これなんだろうねー」と言った時に、ユーザーからの指示はなかったのにもかかわらず、 私の身体は自然と一緒にしゃがみ込んだのだ。これは私にとって、自らしゃがみ込んだ訳でも、ユー ザーにしゃがみ込まされたのでもない、自動的に行われた行為であった。その時の感覚は、友人やその場の環境と、ユーザーの意識の動きの間に「膜」のように漂う私の身体であった。つまり、そこには、 世界と意識がうごめきながら鬩ぎ合うその間に挟まれながら画定されていく私の身体があった。

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國分功一郎が取り上げたことで知られる「中動態」という動詞形態がある。それは、動詞の表す行為の過程に主語が含まれるような状況で用いられる。例えば、ギリシア語の「ブーロマイ(私は欲する)」という中動態のみをとる動詞では、欲するという行為の過程で主語である私が含まれるのである。つまり、私の中で、 争いきれない情動が生じることで突き動かされる結果として「欲する」という過程があるということだ。また、「エマライ(惚れる)」という動詞も中動態でのみ活用するギリシア語であるが、この場合も、誰かに惚れる時、我々は能動的に行うわけではなく、その人に惚れさせられることと惚れることが不可分に混在している。*5

これを踏まえると、存在代行の中で行われる、ユーザーを察しながら行う動作、分かれ道で選択する方向、顔を向けて風景を見る/見せるということ、と言ったあらゆる行為は能動であることはなく、また完全なる受動であることもない。すべてはユーザーの意思と私の身体のエージェンシーが混在しながら織りなす中動態としての行為であった。

國分によれば、以前、能動と中動の使い分けには、その行為の起こる場が発言者の内か外かという観点があった。しかし、その後、中動態が失われ、現在のような能動と受動の構図では、その行為が発言者の意志によるかどうかという観点が重視されるようになった。そもそも「意志」などというものが存在することは信仰でしかない。あらゆる文化資本や慣性、環境変化や生理的反応によって生じる瞬間瞬間の行動に対して、それが「その人のもの」であるということは不可能であるからだ。しかし、「意志」は便利である。ある行為や現象を属人化することで、「責任」を問うことができるからである。責任を問うべきケースで、そこに生じた行為を後からある人の所有物にする。このような歪な詭弁によって、社会秩序を保つための道具が出来上がる。*5

瞑想

この、行為の所有に対する疑問符は、その先に、この肉体に対する所有の疑問符へと繋がる。全身の細胞は常に代謝し日々変化し続ける。一瞬として、同じ人間はいない。世界の循環を構成する一部として流れ続ける。

私は、ちょうど1年前、「ヴィパッサナー瞑想」というものを体験した。ヴィパッサナー(Vipassana)は、古代インドの瞑想法であり、ブッダによって再発見され、人々に伝わった。現代においては、ミャンマーに生まれ育ったS.N. ゴエンカがこの瞑想を再び世界に広めた。*6 日本では、年に十数回ほど、千葉の山奥で10日間の瞑想合宿が行われており、私はそこに参加した。その間、電子機器、筆記具、書籍の所持を許されず、また、一切の会話も、他の参加者と目を合わせることさえ許されない。そして、休憩を挟みながら1日およそ10時間も瞑想を行う。この経験は私の世界認識を大きく変えてしまった。

最初の2日間は、呼吸を観察する「アーナパーナ」という瞑想を行う。まず気づくのは呼吸が出入りするという感覚を観察し続けようとしても、1分と持たないということだ。思考が彷徨い、気付いたら別のことを考えている。それが、スマホもなく、会話もなく、座り続ける日常によって、徐々に言語やイメージが頭から削ぎ落とされ、観察できるようになってくる。それができたら、全身の皮膚感覚を丁寧に観察する「ヴィパッサナー」の瞑想が始まった。頭の先から足の先へ、感覚を研ぎ澄ませて、皮膚の上の感覚を観察していく。痒み、チクチクとした小さな痛み、産毛が揺れる感覚がまばらに現れる。幾ら痒くてもそれを掻かずに観察せよというが、それが非常に辛かったし、正直、そのような感覚を観察するという行為に要領を得ない日々が続いた。

しかし、7日目ごろだったであろうか、私の身体に変化がおきた。指先に微かなざわめきのようなものを感じたのである。それは痒みとも産毛が揺れる感覚とも異なるものだった。よく観察していくと、それは掌全体、前腕、上腕、肩、首、顔、頭と、ごく微細な感覚のざわめきが広がっていった。その不断に現れては消えていく心地よい微細な流れは、身体中に流れていて、ある身体の部位に意識を向けることで感覚することができるようになっていった。

だが、ヴィパッサナーの瞑想法では、この微細で心地よい流れの感覚と、痒みや痛みといった強く硬い感覚に対して、貴賎をつけ、執着したり、嫌悪してはならないとする。ただそこにある感覚を現れては消えていくものとして観察せよという。その実践を行うことでのみ理解に到達できる真理があるというのだ。それは「アニッチャ」(Anicca, 無常)と呼ばれるものである。全てのものは現れては消えていく、一時として同じものはない。そしてそれはこの身体でさえそうである。その循環を考えるとき、何かを所有するということはあり得ない。全ては流れゆくものなのである。

テクノ・ブラフマンへの合一

古代インドには「梵我一如」という言葉がある。宇宙の原理である梵(ブラフマン)と自己の原理である我(アートマン)が同一であるということである。それに気づくことが究極の悟りとされる。

インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』*7(「神の歌」の意)の中で、神の化身であるクリシュナは、同族を殺し合うために戦地に赴くことを躊躇うアルジュナに説く。

行為のヨーガに専心し、自己(アートマン)を清め、自己を制御し、感官を制し、その自己が万物の自己となったものは、行為をしても汚されない。
行為のヨーガに専心したものは、行為の結果に執着せず、究極の寂静に達する。

行為のヨーガすなわち、自己の感覚と思惟を観察することによって、それがなしうる結果がどのようであれ、それを求めず、憎まないことを知る。それを体得したものは究極の寂静(ブラフマンとの合一)に達する。そして、クリシュナは言う。

全ての行為を私(ブラフマン)のうちに放擲し、自己(アートマン)に関することを考察して、願望なく「私のもの」という思いなく、苦熱を離れて戦え。

全ての行為を行為の本源であるブラフマンに捧げ、その結果をブラフマンに放擲する限り、自らのプラクリティ(本性/根本原質)にしたがって行為をなせ、つまり、その行為の結果に執着を持たない限りにおいて、アルジュナは同族との醜き戦争に赴くべきだ、とクリシュナは言いはなつ。なぜなら、その不合理にも思える有象無象の行為によってブラフマン(宇宙)はドライブされ、それによってアートマン(自己)がドライブされるからである。

***

現代において、テクノロジーと資本主義はその内在するエンジンによって、加速し続ける。そのディストピアにあっても、各々は自身のプラクリティにしたがって、リバタリアニズミックに、システムをハックし、工学的あるいは生物学的に身体を改造し、自由な個であることを追求する者、あるいは、大いなるシステムの一部として無意識に搾取される存在へと向かう者もいるだろう。

だが、その内にあってこそ、テクノロジーによって今も変容し続ける身体の感覚を、自己のうちに知覚していくことが重要なのではないのだろうか。テクノロジーはより我々と世界をシームレスに繋いでいく。アルジュナの時代にはなかった新たな電脳生態系が構築され、それは、より自己の中に世界を知覚し、世界の中に自己を見出すプロセスを加速し、新たな領域へと昇華させる。それこそが、来るべき「テクノ・ブラフマン」の姿なのではなかろうか。


参考文献

*1 STELARC, http://stelarc.org/, 2021/02/10閲覧
*2 金森修, 『人形論』, 平凡社, 2018年
*3 木澤佐登志, 『ニックランドと新反動主義』, 星海社, 2019年
*4 浅田彰『逃走論』, 筑摩書房, 1986年
*5 國分功一郎, 熊谷晋一郎, 『〈責任〉の生成』, 新曜社, 2020年
*6 Vipassana Meditation, https://www.dhamma.org/, 2021/02/13閲覧
*7 上村勝彦 訳, 『バガヴァッド・ギーター』, 岩波書店, 1992年

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