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『猫を棄てる』読書感想文
私の母方の祖母は戦争中、朝鮮に渡って日本人学校の教師をしていた。祖父とはそこで出会い、母が産まれた。私が子供の頃、祖母の家に行くと折に触れて当時のことを話してくれた。中でも印象に残っているのは、日本が戦争に負けて日本に引き揚げてきた時の出来事である。
内地に引き揚げるため、祖母がまだ乳児だった母を抱いて他の日本人達と屋外で待機していた時のこと。
日本人の持ち物を略奪しようと現地の暴漢の集団がじわじわと近寄ってきた。それを追い払うため、若い日本兵が空に向けて鉄砲を撃った。すると暴漢の群れは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。でもしばらくするとまた少しずつこちらに近づいてくる。戦争に負けた日本人のことなど、もはや恐れる必要はないのだ。
「兵隊さんは鉄砲を撃ちながら泣いていたよ」と祖母は話してくれた。
少し陰鬱なエピソードのようだが、私の中ではそれほど暗いイメージでは残っていない。
こともなげに、からっと笑いながら話してくれた祖母の口ぶりによるところもあるのだろうが、私の中では、なぜか愛情と温かみを含んだ話として記憶に刻まれている。
祖母の話を聞きながら、暖かい雨が降る草原の駅舎を思い浮かべたことを憶えている。
村上春樹氏の「猫を棄てる」を読んだ。
お父さんの生い立ちや親子の関係性を通して語られているのは、歴史の「受け継ぎ」と「集合化」である。
人々が体験する日常の出来事が、雨水が集まって大きな河につながるように、集合的な何かに吸収されて大きな流れを形成していく。
村上氏と父親との間に長年に渡る確執と断絶があったことは初めて知ったが、その一方で村上氏のこれまでの物語には、父親から受け継いだ歴史の断片が確実に投影されている。
そして、村上氏が父から受け継いだものは、父子という枠組みを大きく超えて、村上ワールドとして広く、深く世界中に伝搬されている。
私自身、大学1年生の時に「ノルウェイの森」に出会って以来、30年以上の長きに渡って熱心なハルキストであり続けてきた。
村上氏の物語を通じて学んだ人生訓は、文字通り何物にも代えがたい宝物であると思っている。
自身の地下深くに潜ること、壁を抜けること、その結果として生まれる深い共鳴性。
物語を通して、自然界の奥に秘められた崇高な創造のレベルを垣間見ることが、村上文学の真骨頂である。
そして同時に、その孤独で客観的な視点の奥底にあるものは、実は他者への温かい思いやりと愛情だと思っている。
猫を棄てるエピソードを通して語られるのも、村上親子をまんまと出し抜いた猫を見たときに父親が少しだけ垣間見せた猫への愛情であり、それに共鳴する村上氏の優しさである。
歴史上起きてしまったことは後戻りできない。松の木に勢いで登ってしまった子猫が下に降りることができなくなってしまったように、降りることは登るよりもずっと難しい。
意に沿わぬ親子の確執も、悲惨な戦争体験も、我々は事実を事実としてありのままに受け入れるしかない。
しかし、その諦めにも似た受け身的な姿勢の根底に優しさと愛情が横たわっていなければ、私たちは生を受け継いでいく資格はないのではないだろうか。
雨が降る異国の駅舎で若い日本兵が守ろうとしたものを、歴史の断片として受け継いでいくことも、村上主義者の一員としてのささやかな使命ではないかと思っている。