江戸の飲み水ってどうやって確保していたんだろう?
徳川家康は、
江戸をどんなふうに発展させていったのだろうか。
そのことが気になって東京の街をめぐりだしたら俄然歴史が面白くなってまいりました。
水!
このキーワードがすごく大事!
でも、わたしは今まで、同じ水でも「水運」のことばかり気になっていました。船を使っての物流です。
家康公は、そのために川を新たに作ったり陸地を埋め立てたり、現代さながらの発想や技術で発展させてきました。重機もなく手作業なんですから、本当にすごい、よくやったなあって、もうなんだか信じられないような気持ちがすることがあります。
例えば川。
家康公の入府当時、関東平野は湿地帯で耕作に向かない土地でした。暴れ川だった利根川をどうにかしなくてはと1594年に大規模な土木工事に着手します。
水害が減ることで埋め立て工事が可能になると家康公は台地を削り取り平地にしたり、埋め立てもすすめていきます。
すごいですよね!江戸時代にこんなことがなされていたなんて!すべて手作業でたくさんの人が毎日毎日掘ったり削ったりの作業。途方にくれなかったかしら…どのくらいで出来上がるという見積もりだったのかなあ…
そんな考えの中で、今回、ふと思ったんですね。
あれ?飲み水はどうしたんだろう?って。
そこで、東京都文京区にあります、東京都水道歴史館というところを調べてみたら、どうやら江戸からの水道の歴史がわかるようで、
わあい!おもしろそう!と思い、早速行ってみることにしました。
ここでは東京の現地から実際に掘り出されたものが展示されて、江戸ではどんなふうに飲み水を確保していたか詳しく紹介されていました。まさにこういうことが知りたかった!という展示!とてもおもしろかったです!
まずは上の写真ですが、「木樋」(もくひ)というものですが、いわゆる今でいう水道管の役割をしていたものです。これが下の図では赤い色になっています。こんなふうに地中にはりめぐらせていったんです!
木だけでなく、石のものなどもありました。
家康公が江戸に入府してから江戸前期にかけて、江戸の水道として整備されていたのは、「神田上水」「玉川上水」でした。上水は石や木で造られた水道管(石樋・木樋)で上水井戸へ送られており、そこから汲み上げて飲料水・生活用水として使用したのです。「神田上水」は井の頭の池が水源となり、「神田川」を渡り神田・日本橋方面へ送水され、明治期に入っても引き続き利用されていました。この二つの上水以外にもいろいろありましたが、一時期の利用の後、廃止されました。
この木樋を作る際、間違えないようにするために作業内容を図にして彫られていたり、繋ぎ合わせるところに同じ図をかくなど、工夫されていました。
おもしろいなあ!
また、下の木樋は、流れてきた水を下に落としていくようになっているのですが、
全体の模型が下のものです。
水は左の樽のようなもの(井戸)に向かって流していくわけですが、一度下に落として流したものを、今度は上に持ち上げて流すようになっています。
このようなつくりも、水漏れがないようにしっかりとつくることで水を下に流したり上に流し上げたりも問題なくできたそうです。
漏れないようにするには、隙間などに木の繊維なでを詰め込んだりして調整しました。
その木の繊維が下の写真にあります。
真ん中にある大きいものが井戸です。下半分以上を地中に埋めてつかいます。
下のように埋めてつかうのですが、時々鮎が流れて入ることもあったとか!
また、洗濯した水などはちゃんと下水に流すという仕組みも作られていました。この下の写真では木の板のしたがそうなっているという展示になっており、
共同のトイレやゴミ捨て場などもしっかり確保されていて、清潔にたもたれていました。すごいなあ!
また、水は貴重だったため水を売るという商売もありました。水屋という人が売りにきました。
また、浄水管理は清潔に保つためにも莫大な管理費がかかり、武士も町人もお金やお米で払っていました。
この歴史館では
この他にも玉川上水ができるまでのアニメや明治や昭和、現代にかけての水道の歴史も詳しく展示されています。大地震や戦争、乾ききってしまうなど、困難な局面を繰り返しながらも、規模、水質ともに世界有数のレベルに成長していく様子がよくわかります。
まけるもんか!といわんばかりにどんなことがあってもたちあがり挑戦していく人々の姿があり、今あたりまえのように水を使えていることに、こんな歴史があったのかと感動しました。
この歴史館に隣接して、本郷給水所公苑があります。
そこには昭和60年代に発掘された神田上水の遺跡の一部が展示されています。
この公苑の近くに、実はわたしが通っていた小学校がありました。今はもう無くなってしまいましたが、この公苑も、当時出来たことを今でも覚えています。
ある時男の子が転校してきました。お父さんがこの管理のお仕事のために来たと言っていたのを覚えています。転校してきた男の子の名前は今でも覚えていて、人の記憶って不思議だなあなんて思いました。
今回は約40年ぶりにお邪魔いたしました。
変わらずバラ園があり、懐かしくこの風景を眺めました。
1590年に家康公が入府した頃は、小さな村落だったという江戸。早急にやらねばならない課題が山積みだったことでしょう。しかも1日や1週間でどうにかなることではないことばかり。でも、一つ一つ長い目で見た上での解決策を考えて江戸というまちをつくりあげてくれたんだなあと感じます。
今回もまた、江戸時代の技術が意外にもいろいろ進んでいたことがわかり、おもしろいことがたくさんわかりました。
江戸水道から約400年の東京で、
水は命だということを改めて感じながら、
安全でおいしい水を飲めることに感謝しました。