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わたしたちが大好きな家族をつくろう
結婚前も結婚してからも、夫の家に遊びに行くたびに感じたのは、あまり会話がなく、仲が良くない家族だということ。
うちだけじゃないんだとホッとしつつも、
両家のこんな共通点は寂しいと思った。
夫は長男で4歳離れた弟と2人兄弟。
うちは私と姉で2人姉妹。
お互い、異性の居る兄弟関係を知らなかったし、
私は 男の子どうしのそっけない雰囲気をこんなものかと眺めていたが、時々理解できないくらい意思の疎通がない兄弟のやりとりをみると、この人たちはどうしてこんなふうになったのだろうと考えずにはいられなかった。
うちは父のギャンブル好きが家庭崩壊の原因だったから、夫の家もなにか大きな問題をかかえていたのかとも思ったが、お義父さんもお義母さんも超がつくほど真面目な方で、知れば知るほどごく普通の生活をされてきた問題のない人々である。
この人たちは
「自分たちはごく普通の家族だ」と思うことで、それ以上なすすべもなく、またその必要性も感じず、家族に無関心になり会話のない家族になったのだろうか。
たとえそうだとしても
そもそもの問題はないのだ。だれにも気兼ねなく自分の素のままでいられるのだから、ある意味家族の幸せの形ともいえるのかもしれない。
夫も自分の育った環境になんの疑問もなく
現状以上のものは全く望んでいなかった。
わたしが違和感を伝えてもそんなことないの一点張りで、わたしの感じ方の方がおかしいと言う。
たしかに人の家をとやかく言うなんて、失礼だし、本人たちがよければいいことなのに
自分の家庭は棚にあげて、彼はこういう家庭で育ったのかというがっかりしたような思いがなぜだか消えなかった。
無口な人という印象だったお義父さんは
喋り出すと自慢話と悪口がとまらない。
とたんに家族はみな凍ったように動かなくなり下を向いた。
何を言い出すかとハラハラした雰囲気で息が詰まりそうなのに、誰も注意をしたりたしなめたりしない。得意げに話すお義父さんと目をあわせたら怪訝な表情をしてしまいそうで、他の家族と同じくわたしも下を向いてただお義父さんの話がおわるのを待った。
コミュニケーションがおかしい。
あまりに普段話していないから、相手がいるという世界があまりに特別すぎて、わからなくなっているのだろうか。自分だけの軸で時間が回っているような空気を感じるのだ。
それでもこの現状を「自分たちはごく普通の家族だ」と思うことでそれ以上の思考を停止させることを成功させているように思う。
「家族としての努力」をあたりまえのようにしなくなっても、相手を感じなければ必要ないのだから気づかないといわれてもしかたがない。
家族の誰かが望んだ、家族に対する願望は
ただのワガママだと洗脳されているのかもしれない。
「問題」をうみだす「問題」を
「問題」とは定義させない空気を感じる。
この気づきは
それこそ夫自身のすべてを言い得たように思え、
ハッとした。
そうなのだ。
結婚して子供を産んで
だんだんに夫に違和感を感じていたことはこんなことだ。
子育ての不安に泣き言を言うわたしに、
事あるごとに言った夫の言葉が、
それをよく物語っている。
「そんなことみんなやってるだろう」
この言葉にわたしは何度うちのめされたかわからない。
夫は私の吐く弱音を許さなかった。
本当は夫の方がわたし以上におびえていたのに。
子育ては
妻や環境を大きく変え
いままで経験したことのない日常が次々と迫ってくることは、変化に敏感な彼にとって恐怖以外なにものでもなかったであろう。
君は変わったと
非難するように、
おびえるように、何度も言われた
だからなんだとわたしもくってかかった。
あなたはわたしにとってなんのつもりなのかと。
あなたの幸せはなんなのかと。
わたしがたすけをもとめても
母性はそれを超えられるはずだといわんばかりに
おまえの不安はおまえが自分でどうにかするしかないだろうと
夫は辛辣な言葉を妻にぶつけた。
「そんなことみんなやっているだろう」
だからわたしは「変わった」のである。
わたしはなにくそとたちあがってきた。
そうだ、みんなやっている。
この不安をのりこえている。
のりこえられないとしたら、わたしはなんてなさけない母親なのだと
自分を鼓舞することで夫の言い分も正当化した。
それは、同時に自分の未熟さを超えなくてはいけないという気持ちも正直、あった。
世の中にでると一目瞭然、
夫は知的で頼もしく、いつも正しかった。
わたしはことごとく間違え、あさはかでおろかだった。
子供時代「問題」に向き合わずに逃げてばかりきたことが、つもりつもって目の前にたちはだかり、
あの時、躱(かわ)したとばかり思っていたことは、
後回しにしただけだったのかと愕然とした。
ここにきていよいよ逃げられなくなったのだと悟った。
父のギャンブル依存の「問題」に心を閉ざし、
「不安」や「不満」を口に出すことは家庭の恥をさらすことだと、他人に知られないようにすることだけに必死だった。
しかしそれは何の解決策にもならず、
結局は夫の家族と同じく「家族としての努力」を放棄し、「問題」に封印をしてきた家族だったのだ。
今でも思う。
父もまた抱えていたであろう苦しみから
わたしたち家族が救ってあげる手立てはなかったのだろうか、と。
あの頃、
母はこどもをかわいいなんて思う余裕もなかった。
母が先月亡くなった。
父は62で亡くなり、その後母は27年生きた。
生前、わたしは年老いた母をどうしていいかわからず、いまさら仲良くなるのは難しいと感じていた。
姉は母との関わりを拒み、やんわりと母との関係を絶とうとしていた。わたしたち家族の思い出を考えれば姉の気持ちは痛いほどわかったしわたしもできることなら逃げたいと思っていたが、わたしはこれもまた逃げても逃げ切れるものではないと悟り、むしろ困難に飛び込むことによって母との関係を修復できたらと考えた。
簡単な事ではなかった。
どんなふうに話したらよいのかどんなふうにつきあったらよいのか、恨みが顔をのぞかせると自分の感情を納めることができず、それは本来父に対するものかもしれなかったのに、早くに亡くなった父はすっかり優しかった思い出の人になり、すべての矛先が母に向かう。
しんどいことのほうが多かったかもしれない。
それでも母が心配で、80代を過ぎた母のもとへ毎週生活のあれこれを持って通い、たわいもないおしゃべりを続けた。
「家族としての努力」をせずに後悔したくなかったのだ。
母が死んだあと残されたわたし宛の手紙があり
疎開先に来てくれた母さんのように優しかったひろちゃん、ありがとうとあった。
母は8人兄弟の真ん中で、いつも上からも下からも仲間に入れてもらえず、みそっかすだったというのが口癖であった。本当かどうだかと思いつつも、「母親も私のことは忘れていたろう」なんていじけたようによくいうものだから、80代になってもこんな思いを持ち続けるものかと「お母さん」への想いというのはいくばくのものかとよく思った。
「母親」というのはこどもにとって良くも悪くも一番なのだということを、ここでもまたしみじみと感じた。
母は戦時中の話をよくした。
新潟の大きなお寺に東京から来たこどもたちが100人くらい寝泊まりしていたという。親と離され暮らしたとい生活は今では考えられないようなものだ。だだっ広いお寺の畳の間に一つの火鉢しかなく、満足に着るものもない寂しさとひもじさと寒さのなか、子どもたちは泣くことすらできなかったであろう。そんなところに弟ふたりと2年もいて、戦争が終わり、東京に戻ったら、お母さんはどこかで亡くなってしまったときかされたのが10歳の時だそうだ。突然に消えてしまったお母さんは、いつかひょっこり帰ってくるのではないかと思い、よく家の前で座ってまっていたそうだ。
そんなお母さんが疎開先に来てくれたのは2度だけ。8人もこどもがいたのだし、新潟に行くことは一日がかりで大変なことだっただろうから来てもすぐに帰らねばならなかったにちがいない。
幼かった母にとってお母さんが来てくれた!という事とささやかな物資とそれ以外、その場面には何か嬉しいことはあっただろうか。例えばお母さんの笑顔とか抱きしめてくれたとか、あたたかな情景はあったのだろうか…
そんな話は一度もきいたことがない。
だから「疎開先にきてくれた母さんのように優しかった」という表現は、母の願望ではなかったろうかと思うと、余計に泣けた。
「母親」というのは
こどもにとって、良くも悪くも一番。
だから、こどもは「母親」をよくみているとおもう。
自分の3人のこどもたちが皆18歳をすぎて、そのことを実感している。
わたしの姿かたちだけでなく、内面もこれほどまでに見ていてくれていたのかと思うほど、子育てにおける悩みや葛藤も受け止めてくれているのを感じる時、ありがたさでむねがいっぱいになる。
わたしたち夫婦の言い争いはこどもたちに何度もつらい思いをさせたにちがいないが、
こどもながらに当時から考えがあったと、大きくなってからは私たちに意見するようになった。
それは、わたしが自分の母にしたような「攻撃」ではなく、「わたしは、ぼくはこう思う」というものであり、時にからかうように「こんな人わたしだったら嫌だなあ」と笑いをまじえて皆どんどんしゃべるのだ。
深刻に夫婦喧嘩していた内容そのままが
いまこどもたちを交え、気さくにあっけらかんと語られ
おやつを食べながら
人間観の話をし、自分の哲学を語る。
そう、わたしの子供の頃は親とこんなふうになんでもいいたいことをいうようなおしゃべりがなかった。
生前母とよく話した。
もっとおしゃべりすればよかったねと。
おしゃべりは大事だ。
こどもにいわれると夫も照れ臭そうに反省し、家族はそんなことを望んでいるのかと考えてくれるようになった。夫はこどもたちにイライラしながら伝えても自分も嫌な気持ちになるだけという経験を重ね、「おしゃべり」の中で注意をしたりお願いを伝えるようになる。
口数の少ない夫のこころを確実にほぐしていく子どもたち。
みんなで言いたいことを言い合って、大笑いする。
なによりすべてが明るい。
夫婦喧嘩で陰湿に責め合ってもなにも変わらなかったことが、皆の笑いとともにお互いを認め合っていく空気に変わっていく。
どうにかしてやっつけようと思っていたいじわるな気持ちが消え、
和やかに「家族としての努力」になっていくのだ。
そんな光景をみながら、
夫にバカだの気狂いだの言われて泣いていた自分を思い出していた。
「ここは会社じゃない!家庭なんだ!」と
報連相のようなやりとりしかない会話をこれは会話じゃない!わたしは会話がしたいんだ!と何度も泣いた。
夫は「意味がわからない」と、
おまえは気狂いだと、「わざと」せせら笑った。
子どもたちにとって、大人のどなりあいは泣きたいほど恐ろしかったろう。
だけど、もしかしたら、あの頃すでに、
お母さんを助けなきゃって、
思ってくれていたのかもしれないなと
ぼんやり思う。
娘が時々夫を戒める(いましめる)時に言うのは
「お父さんはいつも自分のことばっかり。」
お母さんはね、
ずっと「家族」を考えていたんだよ。
こどもたちがそんなことを
夫に言ってくれているように思えるのだ。
こどもたちは、
なぜわたしが考えていたことがわかったのだろうか。
わたしを助け、
夫も孤立させず、
いま目の前に繰り広げられている光景は、
幸せに満ちている。
こんな家族、最高じゃないか!
こどもたちが私たちに気づかせてくれたのだ。
本当は仲良くなりたいんだってことを。
夫におもわずいう。
「ねえ、うちの家族いいよね。
いい家族になったよねえ。」
「そうだねえ」
夫も即答。満足気な笑顔だ。
「わたしはね、自分の家が嫌いだった。だからあんな家にはしたくないとおもってきたの。わたしの母がね『戦争で母親を早くに亡くしたから子供の育て方がわからなかった』とわたしたちをかわいがれなかったことの言い訳で何度もいっていたんだけど、その言葉がすごく嫌で。だって、そんな人何万といたわけでしょう?その人たちみんなが子供をかわいがらなかったはずはない。パパのことでわたしはこどもをかわいがりたいと思える余裕がなかったと言ってくれたほうがまだよかったな…
意識してこうなりたいと思えばすべて叶う訳じゃないけど、こうなりたいと思わなければ叶わない。わたしは母のようにならないと決意みたいのがあって。でも時々子どもへの叱り方がすごく似ていて落ち込んだけど…
うちの家族はこんなに素敵になった。
こどもたちみんな好きな事があって、家族に意見もいえて、わたしたちのよくないところも良いところもみんなみていてくれて。面白い人たちになったよね。
すごくいい家族になったと思わない?」
わたしたちが大好きと思う家族になったよね。
わたしたちが大好きな家族をつくればいいんだよね。」
わたしは言いながらうれしくなってニコニコしながら
娘をだきしめた。
娘とはこんなふうにことあるごとにハグするのだ。
こうなるためには
あの夫の厳しい言動もわたしの葛藤もくやしさも涙も
なんなら父のギャンブルも母への不満も
あれもこれもみんな必要だったのだと思えてくる。
わたしの足りないところを厳しく指摘される場面はどこかで必要だったし、わたしの欠点をはっきりいえるのは夫でなくてはできないことだったかもしれない。
優しいだけの世界も憧れるが、ことごとく努力から逃げてきたわたしにはありえない。
そうして考えてみると、
様々な困難がわたしを真っ当に生かしてくれたのだというおもいが妙にストンと腑に落ちるのだ。
人生は長く生きてみないとあらゆる出来事がどんなことにつながっていくのか、
なにが、
わたしという人間をつくっていくのか
わからないものだとつくづく思う。
若い頃は
「家族」は「わずらわしいもの」でしかなかった。
できることなら、縁を切りたいとさえ思っていた。
だけど、1人になった年老いた母を見捨てることはできず、だからといってわたしの家族の仲間に入れてあげることは固く拒みながら、わたしは自分勝手に家族との距離を保ち、関係性を「守って」きたが、
死ぬまで続くのが
家族という人間関係なのだ
という思いが
良くも悪くもいつも心にあった。
それならば、と思う。
わたしたちの大好きな家族をつくろう。
それはけして皆がニコニコしているとか
愛が溢れているとか
優しくしてくれるとか
美味しいものが食べれるとか
そういう表現ではなくて
なんて言ったらいいのだろう。
相手をおもいながら
自分を、力強く生きていく
そんな家族のことだ。
そして子どもたちも
将来もし家族をもつとしたら
大好きな家族を作ろうと
思ってくれたらうれしい。
わたしたちが大好きな家族をつくろう!
これからもずっと。