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天敵彼女 (57)

 なかなか頭の中がまとまらなかった。まだ時間がかかりそうだ。

 俺は、本格的に考え込むと周りが見えなくなる所があるので、一度教室の様子を確認した。

 幸い、まだ教師の雑談が続いているようだ。

 一応、奏に授業が再開されたら教えて欲しいと書いたメモを渡した。考え事に集中し過ぎて教師に怒られるのを防ぐためだ。

 本来、授業中に考え事なんてするもんじゃないのは分かっている。

 それでもリスクを冒してしまうのは、どうしても気になって仕方がないからだ。

 俺にとって、それだけ昨日の縁さんの話は衝撃的だった。

 今まで信じて疑わなかった事が、覆されたように思えたからだ。

 俺は、男と女は天敵同士だと思っている。

 基本的に、それは変わらない。

 でも、今はそれだけじゃないと思い始めている。

 縁さんは言っていた。

 世の中は俺が思っているより複雑だと。

 確かに、男が常に自分の味方で、女が常に敵とは言えない。状況次第でどうなるか分からないのが実情だ。

 俺は、毒母由来のトラウマのせいで、女全般に対して苦手意識がある。そのせいで、女だけを敵認定するバイアスがかかっているのだろう。

 実際は、男からもそれ相応の被害を受けてきた。中学時代に護身術を習いたくなる程度には、色々なトラブルがあった。

 俺の交友関係は、ずっと狭いままだ。女を遠ざけてきたが、男友達が多い訳でもない。

 今だって、佐伯が俺にウザ絡みしてこなければ、俺の周りは奏と早坂以外誰もいなくなる。

 俺は、女だけが苦手な訳ではない。人間関係全般が(以下略)。

 それを、どこかで女のせい……つまり毒母のせいにしてごまかしていただけなのかもしれない。

 結局、俺は物事を自分が処理しやすいように単純化していただけだった。

 俺は、もう少し視野を広げる必要がある。自分の考えに凝り固まっているばかりでは、どんどん世間が狭くなっていくだけだ。

 今、俺と奏は運命共同体状態になっている。このままでは、奏を俺の問題に巻き込んでしまう。それだけは、何としても避けなければ……。

 俺は、今まで目を反らしてきたことに目を向ける必要がある事に気付いた。

 例えば、世の中には幸せな家族もあり、男女が良好な関係を築いている例もある。

 うちの家族は壊れてしまったかもしれないが、そんな家族ばかりではないことも分かっている。

 むしろ、不満を抱えつつも家族としての形は保たれているのがほとんどだろう。

 俺は、一般的ではない環境で育った事で、一般的ではない考え方をするようになっているんだと思う。

 その点では、奏も似た部分があるのかもしれない。多分、俺とは違った問題を抱えているはずだ。

 そんな俺達が、これからどんどん距離を縮めていった時、一体何が起こるのだろう? 俺達は、本当にうまくやって行けるのだろうか?

 人は人と関わる事でどんどん問題を複雑化させていく。

 お互いを理解していて、長い付き合いがある奏相手ですら、処理しなければいけない事が膨大に増えていく。

 幼馴染相手ですらこうなのだ。

 全く違うバックグラウンドを抱えた人間だらけの世の中で、俺はどう生きていけばいいのだろう?

 考え始めると頭が痛くなる。

 人は多分、複雑性から自分を守らなければ生きていけない。

 物事を単純化して処理しなければ、たちまちキャパオーバーを起こしてしまう脆弱な生き物だ。

 そういう意味では、人は現実を直視しているようで、自分に都合の良いものだけを見ているのかもしれない。

 全てに対処できない以上、処理できない部分は意識の外に追いやるしかないからだ。

 そうやって無意識領域に溜まり続けたものは、単純化された世界の崩壊と共に人を押しつぶす。

 まるで複雑性の氾濫だ。

 人は、その最悪の事態を避けるために、歪に単純化された世界にしがみついているのかもしれない。

 だから、人は簡単に変われないのだろう。ある立場や考えに固執し始めると、どんな不都合が起こっても突き進んでしまう。

 俺だってそうだ。

 平穏無事に生きていきたいと思いながらも、気が付けばいつも自分で自分を窮屈な方向に追いやってしまう。

 何とかしようともがいた時期もあったが、どうしても俺には解決できなかった。

 俺には、普通の幸せは重過ぎる。明るい世界が怖くて仕方がないのだ。

 心理的には、俺はまだ暗い部屋で膝を抱えたままなのかもしれない。

 それはまるで呪いだ。トラウマによって俺は無理矢理単純化させられている。

 異性を天敵認定し、世間一般の幸せに背を向けるよう強制されている。

 俺は、自分が嫌いだ。でも、今更変われない。

 俺にとって、恋愛を排除した世界は、安全なシェルターのようなものだ。そこから無理に抜け出せば、俺の自我は崩壊してしまうだろう。

 そんな俺の事を分かってくれているから、奏も父さんも縁さんも、偽恋人計画という形で、俺のキャパを超えないようにしてくれているんだと思う。

 このやり方は、非常に巧妙で、ある意味残酷だとも言える。

 確かに、俺達がそれぞれのトラウマから解放され、世間一般の幸せをつかみとる可能性がある。

 そうすれば、歪な単純化から解放され、人生の幅が広がる。きっと、今まで知らかなった世界が拓けていくだろう。

 でも、それはあくまでうまくいった場合の話だ。失敗すれば、奏も俺も取り返しのつかない傷を負う。

 そんな事にならない為にも、俺達はこれから慎重すぎるくらい慎重に物事を進めなければならない。

 でも、それは現実的には難しい。

 俺が男で奏が女である以上、いつ命題Xが暴走し始めるか分からないからだ。

 俺には、男女関係の複雑性を制御する自信がない。

 恋愛の失敗は簡単に人を壊す。

 俺は、まだ毒母がいなくなった後の父さんの姿が忘れられない。

 恐らく、父さんにとって毒母はひどい妻だったと思う。

 家事は出来ない。配偶者に対する思いやりがないどころか暴言が目立つ。

 夫婦関係はとっくの昔に冷め切り、ろくに家にも帰ってこない謎の同居人状態。

 育児に協力しないどころか、子供に対するネグレクト。虐待レベルの言動まである。

 挙句の果てに、不倫相手と家に乗り込み、夫を精神病院送りにする鬼畜ぶり。

 常識的に考えれば、こんなろくでもない嫁がいなくなれば、ホッとする事はあっても、悲しむ理由などない。

 にもかかわらず、父さんは最後まで毒母を繋ぎとめようとした。それは、単純化の解除を避けるために全てを犠牲にする愚行だった。

 あの時、父さんは完全に壊れていた。

 自分にとって不利益でしかない関係ですらこの威力だ。

 愛してやまない相手からの裏切りなら、余裕で死ねるレベルのダメージが入る事だろう。

 俺は、自分がそうなりたくないし、奏にもそんな目にあって欲しくない。

 奏は、俺と一緒なら大丈夫だと思ってくれているようだが、どうしても確信が持てない自分がいる。

 単純化は、非常に問題のあるやり方だ。

 目先の脅威を避ける事は出来ても、問題の根本的解決にはならない。

 ただただ、ツケが貯まっていくだけだ。物事がうまくいっていても、破たんしていてもそれは恐らく変わらない。

 失った瞬間、目を背けてきた膨大な過去が押し寄せてくるだけだ。

 人は、複雑性の氾濫に耐えられるほど強くない。

 完全に壊れ切った父さんの姿がそれを物語っている。

 俺は、一体どうするべきなのか?

 途中で駄目になってしまう位なら、最初から関係を持たない方がいい。

 だったら、どうして偽彼氏なんて引き受けたんだ? 自分で自分が信じら
れなくなりそうだった。

 俺は、一体奏とどうなるつもりなんだ? 取り返しがつかなくなる前に答
えを出さなければ……そんな事を考えていると、誰かが俺の袖を引いた。

「話終わったよ」

「えっ……うん」

 俺は、教壇に目を向けた。

 教師の合図と日直のかけ声……俺は、まだぼんやりしたまま席を立ち、いつものエクササイズをした。

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