天敵彼女 (43)
何だか部屋がうるさい。
テレビはついていたが、内容が頭に入ってこなかった。
俺は、奏におせっかいを焼いてしまった件で、地味に落ち込んでいた。
多分、奏はそれ程気にしていないし、かけた迷惑も大したことじゃないと思う。
普通なら、ちょっとやり過ぎた。次から気を付けようで済むはずだが、それが出来ないのが俺の面倒な所だ。
自分でもうまく表現できないが、さっきの失態は俺の中のタブーに触れたのだと思う。
奏がどうとかではなく、自分が許せないのだ。
こういう場合、問題のルーツを辿れば間違いなく例の件に行き着く。
我ながら、厄介なものを心に埋め込まれたものだと思うが、こういう場合少し時間がかかることが多い。
俺は、着替えが済み戻って来た奏に、何か手伝うことがあったら言ってとだけ言い残し、テレビ前のソファに戻った。
奏は、すぐに夕食の準備を始めた。しばらく様子を見ていたが、さすがの手際の良さだと思った。
恐らく、配膳以外手伝うことはないだろう。
本来、奏は俺に何かを頼る必要がない程しっかりしている。今は、元実習生の件があるせいで俺の協力が必要になっているだけだ。
奏の性格上、俺が何かすれば喜んでくれるし、感謝もしてくれる。でも、それに甘えてはいけない。
さっきの俺は、奏に良い所を見せようとして、やらなくても良い事に手を出した。
奏は、遠回しに断っていたのに、気付けなかった。
多分、俺は一度冷静になる必要がある。このままでは大切な事を見落とすことになるだろう。
そういう意味で、今日は色々な事に気付けた一日だった。
これ以上空回りしない為にも、原点に立ち返らなければならない。
いくら奏が困っているからと言って、世話を焼けばいいというものではないはずだ。
俺は、奏の天敵だ。
何もかも俺頼みの人生になってしまえば、奏も毒母のようになるかもしれない。
今思えば、毒母が闇堕ちするまでにはいくつかの段階があった。
俺は覚えていないが、毒母にも良い妻、良い母になろうとしていた時期があったらしい。
その証拠に、俺の記憶の中に優しい毒母の姿が微かに残っている。
当時は、穏やかな性格で、良く笑う女性だったようだ。
そんな毒母に、父さんも協力的だったようだし、本来あんな修羅場に繫がる 要素はないはずだった。
問題は、毒母が壊滅的に家事に向いていなかった事だ。
特に、毒母の料理スキルには到底看過できない重大な欠陥があった。
今思えば、どんなダークマターが食卓に並んだとしても、黙って食べれば良かった。
現に父さんはそうしていた訳だし、俺にも同等の毒耐性があれば良かった。
でも、それは子供だった俺にはハードルが高過ぎた。
俺は、徐々に毒母の料理に手を付けなくなっていった。
それでも何とかしようと毒母はもがいたようだが、結局見かねた父さんが料理全般を担当するようになった。
その頃からだろうか? 毒母が浮かない顔をすることが増えたのは。専業主婦で家事も満足に出来ない自分が許せなかったのだろう。
俺は、自分が毒料理に耐えられなかったせいで毒母が落ち込んでいるのだと思った。
せめて、なるべく父さんの料理をおいしそうに食べないようにしたが、毒母の表情は浮かないままだった。
その後、どうなったのかは言うまでもない。
今でも、どうしてあんなことになったのかは分からない。
でも、俺の中に一つの教訓が残った。
人は天敵頼みでは生きられない……それは、今でも俺の心の深い部分に刻み込まれている、はずだった。
それだけに、俺はさっきの自分の行動が信じられないし、許せない。
俺は、少々浮かれ過ぎたようだ。今はちょっとしたすれ違いで済んでいても、それはいつか大きな問題を引き起こす火種になる。
俺は、奏の事を家族同然に思っているが、本当の家族になれる訳ではない。
奏はもちろん女だし、俺の中にも男の本能がある。
要は、男と女が揃わないと解決できない命題Xが、俺達の関係を歪めていく危険性があるという事だ。
俺は、どこまでいっても男女は互いにとって無害な存在にはなれないと思う。
どんな約束も、社会的な手続も、お互いの本質を変える程の影響力を持たず、いつ休戦協定が一方的に破棄されるか分からないのが男と女なんだと思う。
そんな相手が、無償の愛を惜しみなく与えてくれている状況に、人は何とも言えない居心地の悪さを感じ、心底信じることが出来ないのだろう。
その小さな亀裂はどんどん広がっていき、最終的には天敵としての本能を呼び起こす。
だから、毒母は浮かない顔をして、最後は無理矢理壊そうとした。
俺は、奏を善意の牢獄に閉じ込めるべきではない。一時的に元実習生から保護する為だとしても、あくまで対等な関係を構築していく必要がある。
その為にも、もっと奏と話をしなければ……そんな事を思っていると、奏が俺の顔を覗き込んでいた。
「食事の支度終わったよ」
「えっ?」
「運ぶの手伝ってくれる?」
「う、うん……」
俺は、慌てて立ち上がると、キッチンカウンターに向かい歩き出した。