天敵彼女 (97)
あれは、まだクラヴ・マガの道場に通っていた頃の話だ。
その日は、サルマンさんのレッスンが長引いて、帰りが遅くなっていた。
幸い、父さんの食事の準備は、出かける前に済ませていたので、急いで帰る必要はなかった。
それでも、以前ならまっすぐ家に帰ったのだろうが、道場通いのせいかなのか、俺は妙な自信をつけ始めていた。
今となれば、それは全くの過信だったのだが、むしろ何かトラブってみたいまである状態だった俺は、駅とは反対側に向かって歩いた。
正直、最初は滅茶苦茶楽しかった。真夜中とまではいかないが、夜に知らない街を歩いているだけで、中学生の俺には何もかもが新鮮だった。
普段見かけない人達。昼とは様相を変え始めた街並み。子供が出歩いていてはいけないと言わんばかりにギラギラし始めた空気に、気が付けば俺は圧倒されていた。
一瞬、帰ろうと思った。少しずつ気持ちがざわつき始めていたからだ。
それは、何となく覚えのある嫌な感じだった。毒母とアノ人物が、突然家にやって来た時のような、何とも言えない疎外感が俺の胸を締め付けた。
(子供が聞く話じゃない。あんたは引っ込んでろ)
一瞬、毒母の怒鳴り声が聞こえた気がした。俺は、耐え難い眩しさを感じ立ち止まった。
何故そうなったのか分からないが、俺は目を開けていられなくなり、暗がりを求め中道に入った。
そういえば、父さんが道場に通う事になった際、裏通りには行くなと言っていた。そういう大人の言いつけを破る罪悪感はあったが、ちょっとしたフラバに襲われていた為、そうするしかなかった。
俺は、裏道に入り、何度も目をこすった。視界がぼやけ、どんどん気分が悪くなっていった。
気が付けば、俺は狭い公園のベンチに腰かけていた。どうやってそこに辿り着いたのか分からなかったが、しばらく座っている内に、ようやく気分がましになってきた。
もう帰らないと……俺は、立ち上がり、来た道を引き返そうとした。
(えっ?)
後ろで、誰かの声がした。
俺は、よく考えもせずに振り返った。
「あっ……」
それは、最も会いたくない人だった。
俺は、膝ががくがく震えるのを感じた。
「もしかして、峻なの?」
その声を聞いた瞬間、心の底からどろどろしたものがこみ上げてきて……気が付けば、俺は走り出していた。
もう何もかもが嫌になりそうだった。頭の中がぐちゃぐちゃになり、全てを壊したい気分だった。
俺は、それからどうやって家まで辿り着いたのか覚えていない。断片的に、自動改札を通った事と、電車に乗った事、窓の外を流れる景色を覚えているだけだ。
帰宅後、俺は父さんの横をすり抜け、自分の部屋に向かった。その日は、朝までずっと膝を抱えていた。まるで、あの日に戻ったようだった。
今なら……いや、今でもあれは無理だ。
次の週から、俺は道場に通えなくなった。あの公園に近付かなくても、近くに毒母がいるかもしれないというだけで、俺は身動きが取れなくなった。
何度かサルマンさんが心配して電話をかけてくれたが、俺はどうしてもあの街に行く事が出来なかった。
そうこうする内に、サルマンさんが道場を辞め、日本を離れる事になった。理由は、今でも分からない。父さんから、今日でサルマンさんが最後だと聞いた時、俺は気が付けば道場に向かっていた。
その時に、サルマンさんと一緒に撮った写真は、俺の宝物だ。
今でも、どうしてあんな事で、道場に行けなくなったのだろうと思う。
もっとサルマンさんに教えて欲しい事があった。もっとサルマンさんと一緒にいたかった。
そんな大切な時間を無為に過ごしてしまったのは、俺の心の弱さのせいなんだろう。
別れ際に、サルマンさんは「今日ココ来た。一つ壁超えた。きっと大丈夫。ガンバレ」と言ってくれた。
本当は、嬉しかったが、最後まで顔を上げられなかった。俺は、褒められる価値などないただのヘタレだ。毒母の影に怯え、全てを投げ出そうとした。
俺は、強くなったつもりでいたが、心は弱いままだった。
結局、俺は道場を辞めた。あの街にもあの日から一度も行っていない。自分でも嫌になる程、俺は逃げ続けていた。
でも、そんな事は今日で終わりにするつもりだ。
俺は今、道場に向かう電車に乗っている。まだ一年ちょっとだが、本当に久しぶりな感じがする。
本当なら、もっと沢山の思い出があるはずだった。毒母にさえ会わなければ俺は今でも道場に通っていたのかもしれない。
もう、沢山だ。さっき家を飛び出した時、これ以上毒母の為に何かを諦めるのはよそうと思った。
俺はこれから、あの日と同じ場所から裏通りに入り、小さな公園に向かう。
それから何をしたいとかではないが、そこに何もない事だけでも確認するつもりだ。
今の所、フラバは起こっていない。俺は、裏通りに入った。
街灯の少ない道幅の狭い道……それ程圧迫感は感じないが、何故かソワソワして落ち着かない。
自分で自分が嫌になりそうだが、何とか気を取り直し歩き続けた。
俺は、道に迷いながらも、ようやくあの日の公園に辿り着いた。
それは、本当に小さな公園だった。あの時座っていたベンチもあった。
そこから、周囲を見回すと、目の前に小さなアパートがあった。二階建てで、古ぼけていて、いつ取り壊されても不思議じゃない佇まいだ。
公園には、一応フェンス的なものはあるが、そのアパートの前だけ途切れている。
誰でも出入りできる場所に直接繋がっているのは防犯上どうかと思うが、住民はそれでもいいからここに住んでいるんだろうと自分を納得させた。
俺は、気が付けば公園とアパートの境界にいた。敷地内に立ち入るつもりはなかったので、ここで引き返すつもりだった。
次の瞬間、誰かの足音が響いた。それは、どうやら外階段から聞こえてくるらしい。
ここからでは、顔は暗くて見えないが、ゴミ袋を持っている為、恐らく住民だろう。
俺は、怖いもの見たさでその場に踏み止まった。
こんな事をやっている場合じゃないのは分かっていたが、好奇心に逆らえなかった。
しばらくすると、住民の足音が変わった。外階段からコンクリートの上に移動したらしい。
それから何歩か歩いた所で、住民の顔が公園の街灯に照らされた。
「えっ?」
俺は、絶句した。
まさか、ここに住んでいたなんて……向こうも俺の顔を見たまま固まっている。
それから長い長い沈黙……俺は、また逃げだしそうになったが、それでは 今までと同じだと思った。
俺は現実を直視する事にした。
目の前にいるのは、部屋着にサンダル姿の女性。間違いなく毒母なのだが、それ程威圧感はない。
あの頃は、いつだって不機嫌で、子供の俺にはなす術がなくて、無力で寂しくて、本当に悲しかった。
一度でいいから笑いかけて欲しかった。愛して欲しかった。それ以外にもたくさんして欲しい事があった。でも、何一つ叶わなかった。
今更何を言えばいいのだろう? これ以上の喪失感は無理だ。今にも逃げ出したいのに、身体が動かない。
俺はふと、いつも見上げていた顔を、自分が見下ろしている事に気付いた。
もうかつてのような絶望的な差はない。
むしろ、体格的には俺の方がはるかに勝っている。最悪、毒母が何か言って来ても、強硬手段に訴える事だって出来る。
そうすれば、きっと復讐にはなるのだろう。
でも、そんな事をすれば、俺は俺の大切な人達を悲しませてしまう。
特に、元実習生の時とは比べ物にならない程、奏を怒らせてしまうと思う。そう考えるだけで、冷汗が止まらない。
もう、いいじゃないか。この人がいなくても、俺は生きてこられた。
多分、ここには何もない。俺には、帰る場所がある。もう、膝を抱えている時間は終わった。
これからは、違う人生を歩んでいこう。
そう思った時、自然に言葉が口をついて出た。
「あのさぁ……俺、幸せになるから」
「……そう」
その女性は、穏やかな表情を浮かべていた。それは、本当に懐かしい顔だった。
まだ、父さんとの夫婦関係が破たんする前の、本当に……俺は、こみ上げてくる感情を押し殺し、女性に別れを告げた。
「それだけだから……じゃあね」
「ええ、さようなら」
女性は、ゴミ袋を抱え、俺の前を横切って行った。
俺は、その姿を見送ると、アパートに背を向けた。
もう帰ろう……そう思い顔を上げると、目の前にボロボロ涙をこぼす奏がいた。
俺達は、声を殺して泣いた。まだ、前がよく見えなかったが、もうここにいたくなかった。
俺は、目をこすり歩き出した。奏は、俺の袖をつかみ、隣を歩いた。
「どうしてここが分かったの?」
「おじさまがここだろうって……すぐそこに車が……」
「そっか……」
俺は、奏と手をつないだ。このままずっと歩いていたい気分だった。見上げると星がきれいだった。うまく言えないけど、俺達なら大丈夫だと思った。
「車どこ?」
「その道の先だよ。ここ道幅が狭すぎて、車が入れなかったから……」
「よく分かったね」
「何となく峻がいる気がしたんだ」
「そっか……」
俺は、奏に微笑みかけた。
「峻、笑ってる?」
「うん、多分……」
「そっか……良かったね。峻には、もっと笑って欲しいな」
「奏もね」
「うん」
丁度そこでクラクションが鳴った。俺達は、顔を見合わせて笑うと、手をつなぎ父さんの車に乗り込んだ。
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