大人の卒業旅行の話
【有休期間に一人旅をしてきた記録をつけているだけの雑文】
長く勤めた会社を辞めて、有休を消化している。
せっかくだからこの機会にしかできないことをやろう――と考えて、最初に浮かんだのが、「卒業旅行」という単語だった。
もちろん学校と呼べるようなものはとうの昔に卒業している。だが、退職した会社での勤続年数は10年を超えていた。これはもう、卒業と呼んで良いのではないか。
なによりも、「大人の卒業旅行」という言い回しが気に入った。
そうだ。
ひとりでのんびりと、卒業旅行に出掛けよう。
選んだのは、群馬県渋川市にある「原美術館 ARC」であった。即決だった。
旅先としてはマイナーだと思うのだが、ここを選んだことにはいろいろと理由がある。
ひとつ。かつて品川にあり、2021年に閉館した「原美術館」が好きだったこと。原美術館ARCは、この原美術館と、当時からあった別館「ハラ ミュージアム アーク」が統合されてできた美術館だった。原美術館がなくなると知ったとき、寂しさと同時に、この地への憧れが募った。
ふたつ。関西在住の私にとって、群馬県が単純に遠かったこと。遠いというか、アクセスがしづらいのである。まず東京まで出るとして、そこから最速でも2時間かかる。
みっつ。連休が取りにくい職場だったこと。シフト勤務制だったので、平日に休みやすいというメリットがある半面、2連休を取ることすら難しかった。群馬まで足を延ばすとするならば、移動時間を考えると3日間は欲しい。3連休の確保、という時点で、ハードルが上がった。逆に言えば、有休期間であれば楽にクリアできるハードルだった。
よっつ。これはあとで調べて知ったことなのだが、原美術館ARCの近くには温泉があった。その名を伊香保温泉という。長年の勤務の疲れを癒す旅にはぴったりではないか。
こうして、大人の卒業旅行が始まった。
*****
【1日目】
この日、3月末だというのに、全国的に恐ろしく冷え込んだ。おまけに雨だった。出発ぎりぎりまで、冬物のコートにするか春物の薄手アウターにするかを悩んでいたのだが、冬物にして正解だった。なんなら耳当てが欲しいレベルの寒さであった。
せっかく東京を経由するのだからと、群馬へ向かう前にひとつ美術館に行くことにしていた。いろいろと悩んだが、休館日の兼ね合いもあり、「上野の森美術館」を選択した。VOCA展の期間中だったのだ。
新人画家の登竜門、というだけあって、私と同世代の作家が多く出展していた。そういう意味でも興味深かった。
上野の森というだけあって、上野公園内に立地している美術館である。が、生憎の冷たい雨で、公園散策は断念した。そういえば私はひどい雨女だった。
早めにランチを摂る。のんびりと食事をしながら顔を上げると、雨が雪に変わっていて思わず目が点になった。雨はお昼ごろに雪へと変わるだろう――おいおい、3月だぜ。
群馬へ向かうまでに少し時間があったので、近くの神社へお詣りをすることにした。同じく上野公園内にある、花園稲荷神社と五條天神社である。花園稲荷神社は縁結び、五條天神社は健康にご利益のある神社だそうである。転職前にはぴったりだ。
雨は寒いわ足元は滑るわでなかなかの苦難ではあったが、そのぶん人が少なかったので、静かにお詣りできて良かったかもしれない。
御朱印帳は持ってきていなかったのだが、書き置きを頂くことができた。なんと裏面がシールになっていて、簡単に御朱印帳に貼ることができた。便利な時代である。
予定より少し早く、群馬に向けて出発する。
新幹線を使っても良かったのだが、所要時間と特急料金を天秤にかけた結果、在来線で向かうことにした。所要時間は2時間半程度。旅のおともは電子書籍『呪術廻戦』である。1巻から一気読みだ。
途中、埼玉あたりで顔を上げたとき、窓の外が完全に雪景色になっていて二度見した。おいおい、3月だぜ。
順平編が終わったあたりで、渋川駅に到着した。思ったよりすぐだった。在来線を使って良かった。
見事に雪である。
もはやウケる。
この日の私は、冬コートの下にニットを着こんでいた。冬の格好すぎるかしらとそわそわしていたのだが、完全にこれで正解だった。
お宿は「松本楼 洋風旅館ぴのん」である。
一人旅を歓迎してくれている、というのが決め手だった。シングルルームありで2食付きの温泉旅館というのは、なかなか貴重ではないだろうか。しかもとってもお洒落なのである。ウエルカムドリンクとして柚子のジュースを頂いたのだが、これがまた美味しい。お部屋備え付けのコーヒーが普通のドリップコーヒーではなくカプセル式のドリップポッドだったあたりで、私は今回の旅の勝利を確信した。
ラウンジもこの通り。
しかも、である。旅館内にあるこぢんまりとした浴室は、現在すべて貸し切りで使うことができる。1組入ったら、脱衣場に鍵を掛けて、それ以降は退室するまで貸し切りだ。本来は数名で使うのであろう共用の温泉も、独り占めすることができるのである。このときばかりは世情に感謝した。
ディナーのフレンチ懐石を頂いた私は、前菜からデザートまで終始にやけていた。そのあと温泉を堪能した。温泉に入ると「はー極楽ー」と声が出るのは、あれは条件反射なのだろうか。
移動の疲れかそれともリラックスしすぎたのか、21時過ぎには熟睡していた。
*****
【2日目】
早寝しすぎたおかげか、目覚ましも無いのに5時過ぎに目が覚めた。こんなときはそう、朝風呂に限る。朝からまたしても極楽である。
極楽になった後で頂く朝食は格別である。それにしても、レストランのオムレツというのはなぜこんなにも感動的においしいのだろうか。ふわとろで朝からにやけてしまう。
本日のメインイベントは、もちろん、原美術館ARCである。
バスに乗れば宿から5分くらいで行けるのだが、思いがけず朝が早くなったので、散歩がてら歩いていくことにした。私は徒歩30分程度なら全然苦にしない民なのである。
途中、早朝から開いているお店があったので湯の花饅頭を買った。やはり温泉といえばこれである。
幸い天候は薄曇り程度まで回復していたが、前日からの雪のおかげでそこそこ足元が悪かった。それでも、雪景色の中を散歩するのは悪くなかった。
さて、原美術館ARC、到着である。
開館と同時にチケットを購入し、入館する。
最初の展示室に入って、息が止まった。
出迎えたのは「仏の海」と「ストーン サークル」。
あまりに静謐な空間だった。
開館直後だったためか、ほんの数分、私しか居ない空間だった。作品と私しかなかった。
ああ、私はここに来たかったのだな――と思って。少しだけ、泣きそうになった。
来て良かった。
東京の原美術館で見た作品が、いくつか移設されていた。なんだかとても嬉しかった。良かった、また会えた。
初めて出会う作品もたくさんあった。目で見て、音で感じ、色に囲まれ、全身で作品を味わった。
静かで、贅沢な時間だった。
館内をゆっくり見て回り、最後にカフェでコーヒーを飲んだ。
カフェは美術館から外に出て、少し離れたところにある。
窓から、本館の全景が見えた。
白い雪の中に佇む黒い建物は、とても綺麗だった。
きっと、また来よう。
そう誓って、美術館を辞した。
初めは前述のカフェでランチも摂ろうかと思っていたのだが、計画を変えた。伊香保は、日本三大うどんのひとつ、水沢うどんを擁する地なのだそうだ。せっかく来たのだから、食さないわけにはいくまい。
今度は素直にバスに乗り、温泉街へと向かった。
365段の石段を中心に広がる温泉街は、石段街というそうである。なかなかに壮観だ。
石段を少し上ったところにあるうどん屋さんで、ざるうどんを食べた。セットの天ぷらがやけに舞茸を推していたので調べてみたら、伊香保温泉の近くに、舞茸を栽培している工場があって有名らしい。
うどんがおいしいのはもちろんだったが、天ぷらもサクサクで絶品だった。まいたけが肉厚で食べ応えがある。
満腹で幸せである。ちょっと苦しいくらいに。
腹ごなしを兼ねて、石段を上ることにした。
日頃の運動不足が祟ったか、頂上まで上るのはなかなかの重労働だった。翌日両脚がえらく痛んだのだが、絶対にこの石段のせいである。絶対に。
石段の頂上には、伊香保神社が鎮座している。御朱印を頂きたかったのだが、社務所は無人で、書き置きはすべてなくなってしまっていた。残念。ご縁が無かったということにしよう。
ご挨拶のお詣りをする。
頂上から眺める景色は格別だった。
石段をゆっくり下りる。歩みに従って景色が変わっていくのは楽しい。
いちばん下まで辿りつき、来た道を見上げる。
神社は遠くに鎮座していた。
次に向かったのは、「竹久夢二伊香保記念館」である。大正ロマンや美人画で有名な、あの竹久夢二である。伊香保に縁があるそうで、見ごたえのある美術館が構えられていた。
展示内容もさることながら、スタッフのかたが、竹久夢二のことを「夢二さん」と呼んでいたことが印象的であった。なんだかとても柔らかくて、画家を近くに感じられて、素敵だった。
この日の最後に訪れたのは、「伊香保切り絵美術館」だった。伊香保切り絵作家協会会員の作品が展示してあるのだが、切り絵の制作や鑑賞について、スタッフさんが丁寧に解説してくださったのが良かった。美術館は好きだけれど、そういえば技術そのものについて解説を頂く機会というのは貴重である。
切り絵は省略の美。実際に切る作業は数日でも、その前の下絵を仕上げるのに数か月かかるそうである。
ここでは無料で切り絵体験をすることができる。簡単な図案だが、実際に黒い紙にカッターを入れて、自分だけの作品を作ってみるというのは思った以上に楽しかった。
閉館間際で私ひとりしかいなかったので、スタッフのかたとお喋りが盛り上がってしまい楽しかった。集中して切っていたら、「こういう細かい作業お好きでしょ?」と指摘されたのは笑ってしまった。出来上がりを巧いと褒められ、年甲斐もなく嬉しくなる。
宿への帰路、最後の最後に急な上り坂が控えていて、石段で酷使した脚にとどめを刺されることとなった。
これにて本日の旅は終了。
この日の夜もディナーに感動し、温泉で極楽を味わい、あっという間に眠りについた。
*****
【3日目】
さて。最終日である。
この日は早朝に伊香保を発ち、東京に戻ってもうひとつ美術館を訪ねる予定にしていた。
ところでぴのんには、名前の通り「松本楼」という本館がある。そちらのほうが朝食を摂れる時間帯が早かったので、最終日はこちらで朝食を頂くことにした。
基本的には和食のバイキングだったのだが、もつ煮やらトルティーヤやらハヤシライスやら、なかなかにバラエティ豊かなメニューが揃っていて楽しかった。ちなみにハヤシライスは宿の名物だそうである。
この日にはすっかり晴れ、積もっていた雪も随分解けていた。
バスと在来線で、東京へ向かう。京都姉妹校交流会編が終わる頃、目的地に着いた。
国立新美術館である。
ダミアン・ハーストの「桜」を見てみたかったのと、独特の建築を実際に見てみたかったのと、更に「メトロポリタン美術館展」までやっていたのが決定打になった。
コインロッカーに荷物を預けたあと、館内のカフェで食事を摂る。どうでも良いことなのだが、旅先で美術館に寄るのは実に良い。コインロッカーが実質無料で使えるのである。
興味があったのは「桜」のほうだったのだが、そちらは30分ほどで見終われるとのことだったので、先に「メトロポリタン美術館展」を回ることにした。あとで知ったのだが、どうやら正月過ぎまで大阪にも来ていたらしい。まあ、良いか。
西洋絵画の500年、というだけあって、ルネサンスから19世紀までを辿ることのできる展覧会だった。
私は専門家ではないので滅多なことは言えないのだが、なんというか、「絵画は神聖で特別なものとして始まって、時代を経て、人間個人の感覚の側に戻ってきた」――のだと、思った。理想を描き、現実を具体的に描き、感覚を抽象的に描いた、ような。作品を鑑賞したというよりは、絵画に導かれて500年を辿ったような感覚だった。
それにしても、東京はさすがに人が多い。平日だというのになかなかの人出で、ここ数日存在を忘れていたイヤホンを慌てて装着した。人の気配を消すためには、音楽の力を借りるのが手っ取り早い。
続いて「桜」である。
これは写真撮影可の展覧会だった。SNSの浸透によるものか、最近の現代美術展は写真撮影が許可されていることが珍しくなくなった。
見上げるような大きなキャンバスに、桜、桜、さくらが咲いていた。
子供向けのガイドに「お花見」と書いてあったが、まさにそんな感じである。絵画のお花見。贅沢ではないか。
圧倒的なマチエール。圧倒的な桜。
桜は何色か、と問われたとき、反射的に手に取る色はピンク色だと思う。でも違う。実際の桜の花は、もっと白い。
この絵画の桜でも、白色が多用されていた。だから、というのもおかしな話なのだが――目の前にそびえているのは、確かに桜の木だった。
私にとって「美術館」は、確かに「リアル」なのだ。と。なんの脈絡もなく確信した。
関東との往復には大抵飛行機を利用している。このときもそうだった。
私の旅もそろそろ終わろうとしていた。
タイミングが良かったのか、羽田空港に着いたところで、チューリップの花を配っているところに出くわした。「スマイルフラワープロジェクト」の一環で、規格外の花を無料で配っているのだそうである。
赤と黄色のチューリップが1輪ずつ入ったセットを頂いた。思わぬお土産ができて嬉しくなる。
夕食はお寿司にすると決めていた。もちろん回らないやつである。
一貫ずつ大事に頂きながら、ここでもにやにやしてしまう。今回の旅で、私は食事のたびににやついていたような気がする。
飛行機に乗りこむ。
大人の卒業旅行、これにて終幕である。
窓の外を眺めながら、少し切ない気持ちになる。
切ないというのは、「どう頑張っても手が届かないものに対する感覚」――のことだと、思っている。
だから、切なくて良いのだ。終わった旅はもう手に入らないのだから。
けれど何度でも追体験したいから、こうして記録をしたためている。
何度も味わうことができるのは、終わった旅の特権である。
ありがとう、旅の出会いたち。
それでは、またいずれ。