なぜ加納久宜の方の日本体育会は『いだてん』一話にしか出てこないのか? 或いは日本体育会盛衰記

※この記事は『いだてん』放映当時にTwitterに連続投稿したものを若干の加筆修正をして再利用している。
(主な参考文献:学校法人日本体育会『学校法人日本体育会百年史』https://nittaidai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_snippet&index_id=176&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&page_id=13&block_id=21  )
※加納久宜という人物は一代の英傑で面白い話が幾らでもあるので(競馬史触ってたら心当たりあろ?)、また随時別にnoteを書きたい。

 『いだてん』第一話にオリンピック参加反対の論陣をひっ下げて登場した加納久宜とその日本体育会(『大』のつかない方)であるが、その後の『いだてん』には同シーンの回想を除いて全く登場しなくなる。日本体育会自体はそれなりに存続しているにも関わらず登場しなくなるのは――身も蓋もないことを言うと、明治末年(つまり金栗四三らがオリンピック初参加のために渡欧する頃)には既に財政難に陥っており、オリンピック参加の動きを云々できる状態では無くなっていたのだった。

 そもそも日本体育会は、元々は日高藤吉郎の創始になるものであった。体力の無い者が兵でいては日本軍は弱いままである。富国強兵のためには兵の、いや国民全体の体力を養わねばならぬ。それが日高の問題意識であった。日高が成城中学(とは当時は言わないが)に併設したのが日本体育会の興りで、明治24年のことであった。「強兵のために国民の体力を養う」が起点なので、兵式体操や普通体操の指導者を養うことを目論んだ。
 日高の号令のもと、理想は大きく日本各地に体操学校を整備するのだとぶち上げる。また体育会で養成した指導者に「体育教師」の資格を認めさせねばならない。名士が会員となれば寄付も期待できる。自然と、体育会の運営は地方行政に強く働きかけることになっていく。
 ところで加納久宜は明治初頭に教育行政に関与していた時期があるものの、その後は司法省を経て明治27年から33年まで鹿児島県知事を勤めた。この時期加納は西南戦争後の鹿児島県行政の混乱を治め殖産興業(特に農政)に奔走し、その治世は今なお鹿児島県史上の画期とすらされている( http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/kindai/kanotiji.html )のだが、恐らく「体育会の運営に御協力ください!」と上記の理由で勧誘されたのが加納と体育会の最初の接点だと考えられる。
 さて明治33年に知事の官を辞した加納は東京に戻るのだが、既に「鹿児島県を救った男」となっていた加納を世間は放って置かなかった(し、加納も黙って隠居する男でもなかった)。競馬会や農会など方々に呼ばれるうちの一つに、日本体育会副会長の椅子があった。

 その頃、日本体育会は第一の財政難に陥っていた。日本全国津々浦々に体育学校を設ける、とまでは現実には行かないまでも、各地に様々な設備を整備するうちに寄附金の増加ペースを支出が完全に上回ってしまったのだ。
 もう一つの問題がある。「徴兵免除問題」。国・官立学校の学生は徴兵を免除されるのだが、私立校である限りは学生でも徴兵を免れ得ない。八重の桜でやったところですね!(※やってない)
 これら二つを一挙解決する策として、「日本体育会の国立化、又は公費補助金の受け入れ」が俎上に上った。帝国議会で「日本体育会への国費投入決議」が上程されようとする頃、どうやら加納は日高と会の運営を巡って対立したらしい。一旦副会長を辞するのである。しかし、どうやら国はこの対立において、加納に与したらしい(とボカすのは「百年史」がボカして書いてるからなんだが)。
 「国費投入するからには法人組織に改組せよ」「加納久宜子爵を役職に復せしめよ」。こうして加納は日本体育会の会長となり、日高は組織上、日本体育会を追われた(ただし「創設者」として会則上特別の立場を保ちはする)。
 こうして法人化し国費を受け入れ、加納の日本体育会は万全の体制になった……かに思われた
 実際法人化当初はうまく回っていたのである。水練振興とか体操学校の教員資格認定とか。だが、国費を受け入れるということは、国策から自由ではいられないということでもある。要は、国は体育に関係ありそうなハコモノ整備やビッグイベントを何もかも体育会に押しつけにかかったのである
 一例を挙げると「内国博覧会をするから、体育館を『展示』してくれたまえ。勿論体育会の予算でね!」なんて『要望』があった。予算の入口を握られた状態で抗える筈もない。
 ……明治40年代、嘉納治五郎先生がオリンピックの話を持ち込む頃には、既に日本体育会の財政は傾きかけていた。うん、またなんだ。済まない。
 無論いだてん第一話で言われたような日本体育会の理念(兵力・国力増強のための国民体力の改良!)との差異も無いではないが、要は日本体育会には既にそんな金は無かったのである。
 国費補助が打ち切られるに及び、日本体育会は「日本全国津々浦々に体育学校を」という理想を取り下げざるを得なくなる。東京郊外に体操学校と中学校を設け、そこでの体育教育に専念する他なくなる。……後の日本体育大学と日体大荏原高校である。
 「百年史」に引用する「八十年史」に曰く、『社団法人日本体育会は加納と共に興り、加納とともに衰微した』。国費導入による事業拡大は、外形上は日本体育会の最盛期を示したが、結局国策によって支出は混乱し、国費補助廃止と共に衰えた。加納久宜は明治44年に日本体育会長を退くのである。

 まあ要するに、『四三がオリンピックに行く頃(明治45年)』にはもう加納久宜は会長をやってないし日本体育会としても『日本の体育界をシめる』ような立場には無かったので、いだてんに出るどころではないという身も蓋もない話なのであった。
(つーか明治45年には一宮町長になって加納久宜子爵自身が東京から撤退するんだよなあ……)(「百年史」初引の「八十年史」だとどうも加納久宜の東京撤退の動機を体育会の失敗に求めてる感があるんだが……)

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