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ヘイト・スピーチについて
小泉義之著『ドゥルーズと狂気』に基づいて、ヘイト・スピーチについて考えます。
ヘイト・スピーチに関してはリベラル派からモーレツな反発があります。リベラル派は法の力を借りてでもヘイトスピーチを抑えつけようとする。
一方ヘイト・スピーチする人たちは人権問題を無視するので、やりたい放題の振舞いをする。
ヘイト・スピーチを抑えこもうとするリベラル派は、ファシズム的な極と革命的な極の間に位置するので、それは穏健で穏当な立場です。中間派です。
ただしこの中間派も憎しみや差別や暴力が全くなくなることを夢想し、それが法や理性によって可能になると思い込むこと、現実の対立や葛藤が原理的には全て話し合いによって解決できると信じることこれらは1つの妄想だと言える。
ドゥルーズ&ガタリは、もちろん反リベラル・非リベラルであるがそれは狂気の立場で正気のリベラルを告発・糾弾・否定すると言うのではない。
正気ズラしているリベラルの狂気の様相を分析しているからこそリベラルを見切っているのです。
東浩紀の言説を見聞していると、まさにこの立場だと感じる。事あるごとにリベラル批判しているからです。フランス哲学がベースにあるからそうなるのだろうか。
今回の兵庫県知事選挙では、立花孝志のふるまいやSNSによる革命的なムーブメントが起こった。これは一種の狂気ではあるが、ドゥルーズ&ガタリが言うところの狂気とはズレているような気がしています。