親の介護
昨日YouTubeで、親の介護をされている動画を観たのを契機に、私の家族のことを書きます。
実父は、私が7歳のときに40歳で亡くなり、後に母は再婚した。したがって、父親は養父となります。養父は、享年83歳でしたが、存命中は、脳梗塞を患ったことで、パーキンソン症候群となり、認知症の程度が徐々に上がっていきました。
この当時は、親子別々に暮らしていたため、母親が介護していましたが、歩くことも不自由となり、車椅子が必要という状態となったので、われわれ夫婦の家で介護することにした。
妻はデイサービスで仕事していたので、昼間は、ここで、ほぼ毎日利用することにした。この当時、すでに養父の介護度5だったからできたことです。
ご多聞にもれず、養父との関係は、よろしくなく、若いころは、葛藤の連続でした。ところが、もはや、私の顔すら、分かっているのかどうかで、足腰も立たない状態では、全面的に、私に頼らざるをえないということなので、ベッドから車椅子への移動は、しっかりと、お互いの胸を合わせることとなるが、若いころのわだかまりを、気にするまでもなかった。
さらに、口からの食事摂取困難となったため、担当医と相談の結果、胃瘻造設することに決めた。3週間ぐらい胃瘻装置を通して栄養物を注入する方法を学び、いよいよ退院まじかとなったある夜中に、病院から電話があった。容態が急変したということで、慌てて、駆けつけると、すでに医師が必死で、心臓マッサージを行っていた。
昨日には、元気にしていたのに、いったいどうしたのかという思いはあったが、もう無理だなと察したので、心臓マッサージを止めることを、承認した。若いころは、悔しさで泣いたことは何度もあったが、この時は初めて悲しさから、自然と目から涙がジワリと流れてくるのを感じた。
次は、母親ですが、この時は、詩吟8段という腕前で、元気に詩吟教室にも通っていたため、われわれ家族に来ることもなく、家で一人で暮らしていた。それでも、食事を作ることができなくなったため、私が食事介助程度の介護ですませていた。
ところが、徐々に様子がおかしくなってきた。食事ができなくなるのは、認知症の始まりとも言われているが、その通りの症状が出てきたので、われわれは、一緒に住んで介護することにした。
夜中に、ガタンガタンと音がするので、母の部屋を覗くと、何やら探し物をしている。ここにあった通帳がないというのである。これを、ほぼ毎晩繰返していた。挙句の果てには、「アンタたちが盗んだだろう」と言い始めたので、われわれも、ノイローゼとなりそうだった。
私も、かっときて、大声で、怒鳴りちらしたりした。妻は「家族の介護よりデイで他人様の介護をしている方が楽だね」と言っていたが、まさにその通りでした。母のばあいは、単なる加齢による認知症でした。
妻も、おしめ変えなどの身体介護していたが、仕事をしながらなので、介護するのが困難なため、入所することを検討していた。幸いにも特別養護老人ホームに入所することができた。ある期間、おだやかに過ごしていたが、褥瘡ができたというので、入院することになった。すると、また夜中に病院から電話でかけつけたら、酸素吸入器の管を差し込んだまま、われわれ来るのを待っていた。しばらく様子を見ていたが、息を引き取りました。享年89歳でした。
妻の母親は、夫が73歳という若さで逝去したが、割と気丈な方なので、しばらく、一人で田舎で暮らしていた。それでも、一人暮らしが淋しくなったのか、子供たち〈長女(妻)、次女、長男〉が暮らす土地に引越してきた。子供たちの家を転々としていたが、最後には、加齢による認知症となったので、われわれが、介護することになった。養父と同じく胃瘻造設を実施していたため、デイサービスを利用するわけにもいかず、病院で長期入院をすることにした、通常は、3ケ月が経過すれば、一旦、退院しなければならないが、院長のはからいで、長期入院することができた。
ある日病院から危篤の知らせがあって駆け付けたが、持ち直した。これを、数回繰返した。最後の呼び出しには、またか、狼少年だなと、あなどっていたが、医療機器の数値を見たら、これまでと明らかに違うので、腰をすえて様子を見ることにした。医療機器から発せられるピーピーピーという単純音は、時々動画のシーンで流れているが、耳をふさぎたくなるぐらいに、トラウマとして残っている。子供たち全員が見守るなか、最後のピ~が弱弱しく鳴った。享年92歳でした。