ジル・ドゥルーズ著『ザッヘル=マゾッホ紹介』(9)読書メモ
父と母
父 の 役割 に 確信 を 抱く には、マゾヒストがあまりに安易に母を糾弾し、母権の葛藤をあばきたてる傾向があると述べてみたり、その自然発生性は疑わしいと述べてみたりするだけでは充分ではない。
こうした議論は不都合なことに、あらゆる抵抗を抑圧という様式で理解してしまっているのである。
さらには、ある母から別の母への移動の遂行も、手がかりをかき消す効果を発揮してしまうだろう。
また拷問者の女性の筋肉質な身体や毛皮を、混成的なイメージの証拠として挙げてみても充分ではない。
本来であれば、現象学や兆候学の真剣な議論が、父に有利な証言を行う必要があるだろう。
ところが逆に、あるひとつの病因論全体と、それによるサディズムとマゾヒズムの偽の一体性全体とをすでに前提してしまっている理由づけに、人々は甘んじてしまう。
マゾヒズムにおける父のイメージが決定的なものだと想定されるのは、まさに父のイメージがサディズムにおいて決定的だからであり、マゾヒズムに固有の反転、投射、混信などを考慮するにせよ、一方のサディズムにおいて作動しているものを、他方のマゾヒズムのうちにも発見しなければならないとされるからなのだ。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.64).
継起 する この 諸 契機 の なか で あきらか に なる よう に、父が決定的な人物でありつづけるのは、マゾヒズムが相互に移行可能で、変形可能なきわめて抽象的な諸要素の結合として扱われているからにすぎない。
そこには具体的な状況総体についての、すなわち倒錯世界についての無理解がある。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.65).
マゾヒスト は 自己 の うち で 口唇 的 な 母 と 息子 との 同盟 を 生き て おり、サディストは、父と娘との同盟で生きている。
仮想者は、サディストであれマゾヒストであれ、この同盟を確固たるものにする機能を担う。
マゾヒズムの場合、男性的欲動が息子の役割として具体化される一方、女性的欲動は母の役割へと投射される。
だが、女性性がなんらの欠如をもたないものとして措定され、男性性が否認のなかで宙吊りにされるものとして措定されるかぎりにおいて、このふたつの欲動がまさしく一個の形象を構成するのである(ペニスの不在がファルスの欠如ではないように、ペニスの現前はファルスの所有ではなく、むしろその逆である)。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.77).
サディズム と マゾヒズム の あいだ で あらわ に なる のは、深淵な非対称性なのだ。サディズムが母の能動的な否定と、(法の上位に身を置く)父の膨張を示すとするなら、マゾヒズムは二重の否認によって、すなわち((法の同一化された)母を称揚する積極的で理想的な否認と、(象徴秩序から追放された)父を無化する否認とにほって作動するのである。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.78).