![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/129127619/rectangle_large_type_2_160574066bd0e16b803ff7b87c658623.png?width=1200)
ヘーゲル『大論理学』第二巻 本質論(3)
第一篇 自己自身における反省としての本質
第一章仮象
B 仮象①
(1)有は仮象である。仮象の有は全くただ有が止揚されているという点、有の空無性の点でのみありうる。有はこの空無性を本質の中でもつのであって、仮象は、その空無性を離れては、言いかえると本質を離れては存在しない。仮象は否定的なものとして措定されていることころの否定的なものである。
有は空無なものである。有は空無にすぎない。ただし、この有の空無性の本来の在り方は、本質の中に含まれているのです。だから、仮象は、空無性を離れていては、つまり本質を外していては存在しない。仮象は、ほんとうの存在ではないと措定されている否定的なものです。ほんとうの存在であるかのごとくみえるだけである。
(2)この意味で、仮象が懐疑論のいう幻影である。あるいは、また、観念論の現象も、このような直接性である。これは(客観的独立的な)ある物でもなく、また物でもなく、一般に自己の規定性、したがって、主観に対する関係を離れてあるような無関心な有ではない。懐疑論にとっては「何かが有る」ということは許されない。また近代の観念論には、認識を物自体の知識とみることは許されない。
バークリーやヒュームらの懐疑論では与えられたものは本質をもたず、すなわち感覚しかもたないので、仮象は幻影であり、「何かが有る」のは許せないとなる。
カントがいう物自体という観念論は、与えられたものの本質はあるけれども、それは認識できない、彼岸にあるとみているので、「認識を物自体の知識」とみることはできない、ということになる。
(3)このように仮象は一つの直接的な前提を、すなわち本質に対して独立的な一面を含んでいる。しかし仮象が本質と区別されているかぎり、仮象について、それが自己を止揚して本質の中へ復帰するということは示し得ない。
というのは、有は全体として本質の中へ復帰したのであり、仮象はそれ自身空なものだからである。そこで、ここに明らかにしなければならない唯一の点は、仮象を本質と区別するところの諸規定が本質自身の規定であるということ、及びこの本質の規定性、すなわち仮象は本質そのものの中では止揚されているということである。
仮象は本質と無関係なものとして、かえって独立的な面をもっています。仮象を本質から絶対的に区別されるものとして見るかぎり、仮象は本質へ復帰できないのです。有は自立的存在ではなく本質のあらわれにすぎないのだが、仮象を本質から絶対的な距離に区別してしまうと、仮象はじつは本質のあらわれであることを示すことができなくなる。
仮象は直接的なものであり、かつ無でもあるのです。これが仮象の性質です。ところが、これこそが仮象の本質なのです。だから、われわれが与えられたものを仮象とみた瞬間に、それは本質をみたことになる。本質とは与えられたものを否定し、ゆさぶっていく運動です。
参照図書:見田石介著『ヘーゲル大論理学研究』