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ニーチェとショーペンハウエル
中島義道著『過激なるニーチェ』には、ニーチェはショーペンハウエルをまやかしだと記されている。
ニーチェ が『 旧約聖書』 中 の「 伝道 の 書」から ショーペンハウエルまでの 受動的 ニヒリズム を 忌み嫌っ た のは、 それら が どれ 一つ として ニヒリズム に 徹し て い ない からなの だ。人間は、いままで誰一人としてニヒリズムに徹しなかった。その痛みに耐えかねて、途中で切り上げてしまった。
超人を志すほどの者は、受動的ニヒリズムに見られるような「諦め」に、「すべてを委ねた平穏な心境」に留まってはならない。ニヒリズムは絶対に克服できないことを悟ることによって、かえって全身に不思議な力がみなぎってくるのでなければならない。
自分がかつて耽溺したショーペンハウエルもワグナーも、酔いがさめるとその価値がなかったことに気がつく。異様に「純朴な」ニーチェからすれば、自分は彼らペテン師に騙された被害者なのである。
「神は死んだ!」というニーチェの叫びには、「騙された!」というトーンが強烈に響き渡っている、と中島氏は述べる。
ニーチェは神は死んだと叫んで狂人のごとく彷徨ったというのだが、死んだではなく、もう2000年前にキリストは処刑されて死んでいたのであり、それを今さら、死んだと叫ぶのは、欧米人がこの死んだはずのキリストを2000年後も崇め続けている欺瞞性を暴きたてたということだろう。
ニーチェの死後100年以上経過した現在でも、ニーチェが生きていた頃に比べたら、権力、威圧感はかなり減少しているとはいえ、キリスト教は継続している。
自分は自分の意志でもないのに、この世に産み落とされ、散々苦しい思いをした挙句、あっというまに地上から消え去る。
神がいないとすれば何故こんな過酷な状況に投げ込まれたのかがわからないことになる。こうしてどう生きていくかに不安で怯ている人々の気持ちを見透かしたように手玉に取って人々を騙し、ヨーロッパを支配してきたキリスト教に対して、その欺瞞を暴きたてたということだ。
この神がまやかしだったとすれば、涅槃だの悟りだのという新しい神は もう、まやかし以外の何者でもない、とニーチェは怒っているのです。
無神教である私からすれば、こうしてヨーロッパでキリスト教を信じている人々のことは、全く理解の範囲外にあり、ニーチェの怒りが分かるわけではないが、こうした怒りに類似したものは私の生活世界範囲でも想定はできる。