ニーチェ『権力 への 意志』(18)読書メモ
第三書 新しい価値定立の原理
Ⅰ 認識としての権力への意志
c) 「自我」によせる信仰。主観
・現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。
・①総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるものであり、世界はおのれの背後にいかなる意味をもってはおらず、かえって無数の意味をもっている。ーーー「遠近法主義」
・②世界を解釈するものそれは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。
ここで、突然ですが、竹田青嗣氏の意見は次の通りです。
【私見:①だけを見ると、遠近法は相対主義的と思える。しかしながら、②を含めると、ニーチェの遠近法は、竹田氏の主張の通りと考えられるのでは?】
・私たちの無知がはじまるところ、私たちがもはやそのさきを見とおしえないところ、そこへ私たちは或る言葉を、たとえば、「自我」という言葉を、「為す」という言葉を、「蒙る」という言葉を、置きすえる、ーーーこれは、おそらく私たちの認識を限る地平線ではあろうが、しかしいかなる「真理」でもない。
・思考によって自我が定立されるのである。しかるにひとは、民衆と同じく、「われ考う」のうちにはいくばくかの直接的に確実なものがあり、だからこの「自我」が思考のあたえられた原因であって、これと類似的に私たちはその他すべての因果関係を理解すると、これまで信じてきた。
・たとえ現今あの虚構がどれほど習慣的となり不可欠となっていようとも、ーーーこのことだけではいまだなんらその仮構性の反証とはならにあ。或る信仰は、生の条件ではありえても、それにもかかわらず偽でありうるからである。
・主観、これは、最高の実在感情のさまざまの契機すべての間の統一によせる私たちの信仰をあらわす術語にほかならない。私たちはこの信仰を唯一の原因の結果として理解する、ーーー私たちは、この信仰のために総じて「真理」「実在性」、「実体性」を空想するほどに、この私たちの信仰を強く信じている。
・はたしてあれこれのものが実在的であるかどうかを(たとえば「意識の事実」が)決定するためには、存在とは何かを、同じくまた確実性とは何か、認識とは何かだど、こういったことを知っていなければならない。ーーーしかるに私たちはこれらのことを知ってはいないのであるから、認識能力の批判は背理である。
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