「心」はどこにあるのか
「心」はどこにあるのかと、問われると、 多く の 人 は「 脳 の 内部」 と 答えるでしょう。「 精神 の 基体 は 脳 に ある」 というのは現代人の標準的な解釈だからです。
2000年前のインド世界では、心は脳にあるという発想はなく、心臓部にあると考えていたようです。現代でも、心は心臓にあると考えている人はある程度いるように思います。
4世紀ー5世紀ごろにインドで成立したとされる部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書『俱舎論』では、次のように心を捉えている。
空間的に特定できなければ何処かというと、あえて無理な答えとしては「その生命体の全体に遍満している」と答えるしかないのである。
この考え方は、現代の脳科学でも、同様の説があった。2024年5月12日に投稿した意識と無意識 では「近年では腸と脳との関連性が明らかになっており、腸内細菌の働きも、無意識に影響を与えているとも言われている。」と記述しています。
現代の科学では精神世界の独立性を認めず、精神もまた物質的現象の一部としている機械的一元論である。
『俱舎論』ではそうではなく、物質でも精神でもない、今で言うなら、エネルギー領域である。【現代物理科学でいうダークエネルギーか?】
こうして、『 倶舎論』 の 世界観 は 原則 として、「 物質」 「精神」 「エネルギー」の三元論になっている。この三元論は、現代の科学的一元論から見れば稚拙で不当なものに思える。
しかし、「三元論」の外枠をはずして、内実の相互関係から見ると、現在の世界観とそれほど違うものではない、と佐々木閑氏は言う。
精神の領域にはどのような法が存在しているのかは、次の通りです。
『俱舎論』を言い方を変えると、次のようになる。
現代科学では、物質の基本要素を、電子とかクォークといった素粒子だと考えています。こうした科学的分類法では、人間という存在は全く考慮されていない。
一方、仏教(釈迦)は「人はこの世をどう認識しているか」ーー仏教に限らず、哲学も同様ですーーを基準にしているので、これについて記述します。
仏教では、感覚器官として、眼、耳、鼻、舌、身の他に意も加えている。それぞれを眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根と名づけた。これらを六根と言う。
眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根は、それぞれ色(いろ・かたち)声(音など)、香(臭い)、味(美味しいなど)、触(冷たいなど)、法(なつかしさなど)を認識する。ここで、意根で認識するものを法と言う。
六根に対応して存在する六つの認識される領域を六境と言う。色境・声境。香境・味境・触境・法境となる。六根と六境をまとめると十ニ処と言う。
六根と六境が触れ合うことで生まれる認識そのもの(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を含めると十八界となる。
この十ニ処や十八界が、なぜ世界の構成要素となるのだろう。
「私」とは、実体がなく、無数の要素の集まりが、時間の経過に沿って絶えず生成変化する複雑系なのだ、ということです。
「心」も、その実体のない「私」に貼りついているのですから、どこにあるかと問われても、答えようがないが、前述したように「その生命体の全体に遍満している」となります。
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