物語と時間 (続)
今回も、放送大学の教材の『現代フランス哲学に学ぶ』内で杉村靖彦氏が解説するポール・リクールについて学びます。
前回は、時間性のアポリア(行き詰まり)について説明されるわけではないが、時間が物語の筋立てとして形象化されることによってわれわれが自己と世界を生きるための図式になるというところまで記しました。
今回は、リクール理解のキーワードとなる「行為し受苦する自己」、「フィクション物語と歴史物語」、「物語的自己同一性」を追記します。
行為し受苦する自己
SNSなどで何らかの発言(行為)をすると、いいね!ボタンだけがくるわけではなくて、中には厳しい反論を受ける(受苦)こともある。
自己の内面を描いたからといって、苦から逃れるわけではない。だが、描くことによって、少なくとも苦の正体をつきとめることはでき、苦に耐えることはできる、ということでしょう。
フィクション物語と歴史物語の交差
物語とは所詮、フィクションにすぎないのではないかという考え方もあるが、それは余りにも単純だ、と杉村靖彦氏は言う。
歴史書はノンフィクションだとするが、過去の史実に基づいていたにしても、過去に遡って確認することができないのだから、結局、史実をネタにして、物語を描かざるをえないということになり、つまりフィクションと同様なことになる、というわけです。
物語的自己同一性
構造主義の時代が終わり、この時代を主導した「主体の解体」の後で、改めて別の形で「自己」を探求することになった。解体された主体の後に、「誰が」来ることになるかの結論として「物語的自己同一性」という概念をリクールは提示した。
ところが、概念を提示しただけで、次の課題として残こすことになった。リクールがこの課題に取り組んだのは、1990年に刊行された「他者としての自己自身」であった。これについては、次回とします。