見出し画像

ニーチェ『権力 への 意志』(16)読書メモ

第二書 これまでの最高価値の批判


III 哲学批判

2 ギリシャ哲学の批判

・ソフィストたちは現実主義者以上の何ものでもない。彼らは、一般におこなわれていたすべての価値や実践を定式化して、価値の順位をつけるのである、ーーー彼らは、すべての強い精神がもっているところの、おのれの非道徳性を知る気力をもちあわせているのである・・・・

・プラトンのあっては、彼は過敏な官能性や惑溺癖をもった人間であったが、概念の魔力がきわめて大きかったので、彼は知らずしらず概念を理想形式として畏敬し神聖視した。弁証法の陶酔は、それでおのれを支配することができるという意識にほかならなかったーーー権力意志の道具にほかならなかった。

・ギリシャの哲学者たちのところで私がみてとるのは、本能の衰退である。さもなければ彼らは、意識された状態をより価値多いものとみなすほど、はなはだしい失敗はなしえなったであろう。意識の強度は脳神経伝達の容易さに反比例する。

・根本において道徳は科学に対して敵意をいだいている。すでにソクラテスがそうであったーーーしかもそれは、科学が、「善」・「悪」になんらのかかわりあいもない、したがって「善」・「悪」の感情を重視せしめない事物を重視するからでる。

3 哲学者の真理と誤謬

・アリストテレスにしたがえば、哲学とは真理をあらわならしめる技術である。これに反して、アリストテレスの感覚論的な認識の理論を利用したエピクロス学派は、真理の探究をまったく皮肉に拒否して、「哲学とは生活の技術である」とした。

・誤謬の原因は、人間の悪しき意志のうちにと同じく善き意志のうちにもある。

・誤謬は、人間がおのれに許しうる最も高価な贅沢である。しかも誤謬がそのうえ生理学的な誤謬であるときには、それは致命的な危険となる。

4 哲学の批判への結論的考察

・私があげたのは、無意識のうちに私のために働き準備した先駆者たちである。しかし、私がいかほどかの希望をもって、私流儀の哲学者そのものを、少なくとも新しい哲学者をもとめる私の欲求を、どこに探しもとめたらよいのか?それは、高貴な思考法が支配しているところ、奴隷制とさまざまな程度の隷属とをあらゆる高級な文化の前提として信じている思考法のみである。

・私は、自由精神を何かきわめて確定的なものと理解している。それは、哲学者やその他の真理の使徒を、おのれに対する厳しさによって、純正と気力によって、否定が危険であるとき否と断言する無条件的な意志によって、百倍も抜きんでてい、ーーー私はこれまで哲学者を、真理という女の頭巾をかぶった軽蔑すべき法当時児として取りあつかう。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?