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ニーチェ『権力 への 意志』(17)読書メモ

第三書 新しい価値定立の原理


Ⅰ 認識としての権力への意志

a) 研究の方法

・私たちの19世紀を特徴づけるのは、科学の勝利ではなく、科学に対する化学的方法の勝利である。

・科学的方法の歴史は、オーギュスト・コントによってほとんど哲学自身と解された。

・最も価値ある洞察は最もおくれてみだされる、しかし最も価値のある洞察とは方法である。

b) 認識論的出発点

・事物の根底はきわめて道徳的となっているので、人間の理性こそ正しいという前提はーーー一つの信頼心・愚直な者のとる前提であり、神の誠実性と信じていた影響ののこりであるーーー神は事物の創造者と考えられていた。これらの概念は、かつて彼岸で生存していた前世からの遺産である。

・いわゆる「意識の事実」に対する抗議。観察は千倍も困難であり、おそらくは誤謬が観察一般の条件であるかもしれない。

・近代哲学の批判。あたかも「意識の事実」なるものがあって―――自己観察においてはいかなる現象論もないかのごとく思いこむ誤りだらけの出発点。

・「意識」ーーー表象された意志、表象された意志、表象された感情(これだけが私たちに熟知のものである)は、なんとまったく表面的なものであることか!私たちの内的世界もまた「現象」である !

・私たちは「事実」なるものにけっして突きあたることはない。快と不快も、あとからの派生的な知性の現象にすぎないのである。

・現象論をもとめるべき場所を誤ってはならない。すなわち、私たちがあの有名な「内官」でもって観察するこの内的世界にもまして、より現象的なものは何ひとつない、(ないしはもっと明瞭も言えば)それほどはなはだしい迷妄は何ひとつない。

・意識されるすべてのものは、一つの終末現象、一つの結論であってーーーけっして何ものかをひきおこす原因とはならない。意識のうちでのすべての継起は完全にアトム論的である。

・「内的世界」の現象論。年代記的逆転がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識されるにいたる。ーーー私たちが学んでしまったのは、苦痛は肉体の或る個所に投影されるが、そこに座をしめているのではないということであるーーー、私たちが学んでしまったのは、幼稚にも外界によって制約されているとみなされている感官感覚は、むしろ内界によって制約されているということ、すなわち、外界の本来的な作用はつねに意識されることなく経過するということである・・・

【私見:この箇所は、まるでフッサール現象学的還元と同じだ。というより、フッサールは、ニーチェの思考を取り入れたということか】

・私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の「原因」として投影されている・・・「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが「内的経験」の根本事実である・・・

【私見:上記と同様に、現象学的還元の説明になっている】

・「理解する」とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古いものの言葉で表現しうることにほかならない。

・認識意欲の度合いはその種の権力への意志の生長の度合いに依存している。種は、実在性を支配するのに必要な、それを奉仕せしめるに必要なだけの実在性をとらえるのである。







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