竹田青嗣著『欲望』第Ⅰ巻「意味」の原理論を読む(9)
第一部 存在と認識
第二章 認識の謎
第8節 懐疑主義の衝撃
二十五 方法的経験論
デカルトおよびスピノザの「神」の存在証明は、数学的ー幾何学的な仕方で遂行される。いまや自然世界のみならず人文的世界の領域にあいても数学の方法にもとづいて普遍学を打ちたてることが可能であるように見えた。
だが、ヒュームの方法的経験論がデカルトおよびスピノザたちの確信に決定的な痛撃を与えた。
ヒュームは認識の本質を考えるために、まず「因果性」の概念を徹底的に考察する、という道をとったのである、と竹田青嗣は言う。
因果性についてのヒュームの原理は以下の通りである。
第一の原理:「印象」はわれわれのすべての観念に根源(始元)点である。印象はどこまでも主観における絶対的始元であり、その真の原因、起源としての原因へと遡行することは不可能である。
第二の原理:因果性の関係は論理的な必然性として演繹されるか、あるいは蓋然性として導かれるかのいずれかである。
第三の原理:経験的な因果性、すなわち事実的な生成の因果性の結びつきは原理的に「蓋然性」としか成立しない、ということが意味するもの何か。その帰結は以下、一切の経験的因果性はただ主観のうちの「信念」としてのみ成立する。
「これ」をみるとその原因として「あれ」を思いつく。「あれ」について考えるとその原因として「これ」を思いつく。この連合のうちには絶対的な必然性はなく、ただ習慣的傾向があるにすぎない、とヒュームは言うのである。
論理的には、われわれが事態の因果的確実性について厳密な知識に達しえないことは明らかであるのだが、にもかかわらず人間はさまざまなことがらについての因果性を信じている。
なぜか?
情動的要因が「信念」を生み出しているからである、と竹田は言う。
二十六 「原因」の観念
哲学者たちは「真の原因」を、まず事物的な因果関係における「原因」の観念を追いつめ、つぎにそれを人間的事象に適用する。しかし「原因」という観念の本質を観取するならこの推論は無意味であることが理解される。
というのは、どんな事象であれわれわれがその原因と呼べるものを探すなら、必ず複数の「原因」が見出される。真の原因とは、この複数の「原因」のうちの任意の一つではないし、また「原因」の系列の極限的な遡行から取り出されるものでもない。むしろ人間がそのつど何を自分にとって重要なものとみなすかという、生の目的性と相関性にのみ現われ出るものである、と言う。
重要なのは、ヒュームが論理的な帰謬論によってではなく、「原因」の観念の徹底的考察によってすなわちその廃棄によって、ヨーロッパ哲学における形而上学的本体論の解体の端緒となったと言う点である、と竹田は述べます。
このヒュームの原理は、力の因果の遡行不可能性の原理と呼ぶ。
二十七 ゴルギアス対ヒューム
ゴルギアスの三つの認識の不可能性とは次のようなものだった。
何ものも存在するとはいえない。
仮に何かが存在するとしても認識しえない。
もし存在と認識が可能だとしても、それを言語で表現できない。
ゴルギアスの批判は、本質的に、背理法ー帰謬論による認識の不可能性の論証である。
これに対して、ヒュームは言う。「われわれの生の自然は、懐疑論的な理屈とは裏腹に、われわれとしてさまざまな事物や生成の存在を必然的なものとして信じせしめる」と。
「われわれは信念のそれ以上遡行できない底板につきあたったなら、そこにとどまるべきである」というのがヒュームの哲学の核心である。
「われわれが原因と結果を絶対的に結びつけるものを直接に認知できなことは、動かしがたい事実である。だが生活経験が与える存在とその因果の信念の必然性については、われわれはこれを認識できる」とヒュームは言う。
「原因」の概念の探求におけるヒュームの結論は以下である。
この問題についての哲学的探求の真の主題は、事物の存在の究極的原因が何であるか、ではなく、むしろ「われわれに物体の存在を信じさせるようにする原因」が何であるか、ということでなければならない。すなわちヒュームの方法的経験論の中心テーゼは、「世界の一切は疑える」ではなく「世界信念の条件を保証せよ」である。