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アンリ・ベルクソンについて

戸島 貴代志共著『現代フランス哲学に学ぶ』に基づいて、アンリ・ベルクソンについて学びます。

ベルグソンは科学と哲学の認識について次のように分けた。

科学の認識:

  • ①物の周りを回ること

  • ②視点と記号に依存すること。

  • ③相対に留まること

哲学の認識:

  • ①物の中に入ること
    物(人)の中に入るとは、例えば他人が悩んでいた場合には、その人に同感したり同調するようなことである。

  • ②視点や記号に依らないこと

  • ③絶対に到達すること

カントは主観によって対象物が構成されると述べているのに対して、ベルグソンは対象物の中に入りこんで対象物を認識すると反論している。カントも彼が生きていた時代までの哲学者は真理とは何かという問いかけを行なってきたことに対してコペルニクス的転回したと自負していたが、それをさらにベルグソンは再転回したことになる。

生を外側から捉える方途は分析であり、それを武器とする能力が知性となる。

人は意識していなければ、心臓が鼓動していることを忘れていられるが、ひとたび振り返ることとなれば、その「当然」と思っていた事が奇跡にさえ見えるだろう。知性とやらの分析力でその鼓動の精緻なメカニズムが奇跡としか見えないとしたら、この知性は奇跡という仕方で自分の背中をみることになる。これをベルグソンは知性の独り相撲だと笑う。

生きるためには、現実世界に対応していき、戦いぬくのは当然であり、そのツールとして知性を活用する。しかし知性は既に出来上がったものから習得したものであり、それは生の哲学からは逸脱している。とはいえ、直観だけでは物の中に入り込んでしまって出られなくなるが、その点知性は物から離れて見る視点があり、直観と知性は相互補完することになる。

生の哲学は記号に依らないとなると、直観を言語化できないというジレンマがある。言語についてのジレンマは現代でも課題ではある。

人は 何か障害物が前に立ちはだかると、過去の経験から得た知識で何とか乗り切ろうとするが、その手法は科学的な認識からだが、この手法では 反省のあるところには予見があり、予見があるところには不安があり、その不安を取り除こうと宗教にすがることになる。

しかし宗教では救われることはない。ベルグソンはこんな場合には、ある日突然自分を呼ぶ声を聞いたかのように立ち上がり魂の奥から情念の炎みたいなものが湧き上がって無意識のうちに突き進んでいくという行動を取って突破することだと述べている。

窮鼠猫を噛むとか、火事場の馬鹿力みたいなものか?人は追い込まれると、何クソっと腹の底から怒りがこみ上げて、自分をコントロールできないことがあるが、これもそうだろう。 スポーツ選手が ハイになるとか、ゾーンに入るとか言ってるようなものか? それは、障害を障害と見ないか、感じない心境になるということだ。いわば神秘の力を信じることなのか?

プロ野球の世界では、かって長嶋茂雄さんは 打つコツはと尋ねられると パッときた玉をパッと打つだけだと答えた言われていて、これが本当のことかどうかは分からないが長嶋さんならありそうなことと思える。

この事は、自分の直感を言語化できないことの典型だろう。単に語彙力の問題ではないだろう。その点、野村克也さんも優れた選手であったが、野球技術の言語化能力の高さがあったのは何故だろう?とは言え、奥底にある深いところの直観は語ることができなかったのでは?身体が無意識で瞬間的に動くのを言語にすることは無理だろうと思える。

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